フィールド・レコーディングに関する嬉しくないこと

フィールド録音に関して色々なところで書いてきた。
たくさんのフィールド録音家がおり、CDもたくさん出されている。
しかしどうもしっくりこないことがある。
愚痴っぽいがそれを書いてみよう。
最近は機材が高性能になり質の高い録音が多く、描写の精度は上がった。
未知の音響との出会いは世界に新たな目を向けることになるだろう。
しかし私がここで、おや?と思ってしまうのは、どんなふうに目を向けるのかが、そこから伝わってこないことだ。
こだわりのようなものでもいい。
もちろん全部が全部がそんなではない。
独特な視線が伝わる作家はいる。
Lee Pattersonがいい例だ。無邪気かつ冷静な視線が感じられる。
奴は録音キチガイである。
フィールド録音の作品が、昔流行ったアマチュアの生録と同じでは意味がない。
また、録音機材が高価だからプロという訳でもない。

もうひとつ気になるのは、フィールド録音をひとつの制作方法として考えることである。
つまりフィールド録音を「無演奏による音楽」あるいは「記録による音楽」と見なすことだ。
コンセプチュアルな態度として、これは分からなくはない。
実際、作曲家・演奏家が自身の音楽に対する真摯な追求により手段として採用しているのなら何の問題もない。
しかしさしたる必然性もなく、これを行うというのはどうだろうか。
「フィールド録音やってます」という言葉を聞くことがあるが、何を録音しているのかは言わない人が多い。
フィールド録音がひとつのジャンルのように扱われるが、そうであったとしたら「アナログ・レコード」ですらジャンルになってしまうのではないだろうか。
ジャンルに保障されて表現が成り立つと信じることほど情けないものはない。
水の音の変化が好きで、というのなら、なるほど、水滴から滝や波まで、と思える。
マイクを構え、予期せぬ偶然を待っている、というのなら、
あなたが待っている、その「偶然」とは何ですか、どこからがその「偶然」なんですか、という話になるのではないか。

私も昔は興味半分でいろいろ録っていたが、その内「フィールド」とは何かを自問するような録音を行っていた。
振動の影響する範囲の描写、これがテーマだった。
その意味で私は「フィールド」を録音してきたのだ。
コンタクト・マイクはその点でよく働いてくれた。
文字通りそれはフィールドワークであるが、或る特定の場所の研究ではない。
振動の伝播から空間の姿を考える作業が私の録音だ(った)。
私の録音作品は、日々、仕事をしながらの限られた作業のためか、作品として伝わりにくいものがある。悶々と悩んでいることが多い。
だが、こだわりは持ち続けてきた、と堂々と書いてもいいだろう。

私が今、少々困っているのは、作り手も聴く側も、結局そこで聴こえる音しか相手にしないような現実だ。
作家の意図や作品の意味するところから与えられる想像力は、二の次になってしまうような聴かれ方。
何を録ってもフィールド録音は「フィールド録音」だとしか思わないような聴かれ方、接し方。
「フィールド録音」だと聞いて、それだけで納得してしまうだけ。そこに何があるんだろう?
文字が読めれば文学が理解できるというのか。
現実の時空間を相手にしているというのに、そこにある様々な意味をそぎ落として聴かれてはたまらない。

しっくりこない、と書いたこれらの事々がそこに関わっているのではないか。

かと言って、現状を踏まえた上で自分の作品を変更しようとは思わない。
しかし、そのブームのようなものが、リスナーにとって私の作品と関わってきてしまうだろう、という思いが起きてしまうのが嬉しくない。
もっと丁寧に作品に接してくれという願いは甘えだろう。