「初国知所之天皇」を観て

「一滴にもう一滴注いでも大きな一滴になるだけだ。二滴にはならん」
タルコフスキーの『ノスタルジア』にあったセリフだが、
物事には横に並べて対比させるのではなく、同心円状に重ね合わせることで解釈されるものがあるようだ。
これは事物をめぐる心理的なものだけでなく志向性、意志の働きのようなものもそうなる場合がある。
長大な上映時間を誇る映画も、私にはこれに支えられているように見えた。
物語は映画監督自身の姿とモノローグによって展開される。
当初は日本列島を舞台として俳優を入れ、古事記の物語を反映させた映画を撮るための旅の記録だったが、
続けるうちに物語を持つこと自体に挫折し、以降は旅そのものが重要なものになっていく過程が描かれていく。
北海道から日本列島を歩く自分自身が初国知所之天皇(はつくにすらすめらみこと)であり、重い荷物を背負った自分が戦争に旅立った父と重ねあわせられ、
列島にあてどない一本の道を描いていく。
「まるで映画を見ているようだ。私は何度もつぶやいた」
ミュージカル映画ではなく、映画のミュージカルを撮るべきなのだ」
常に8mmカメラを持って景色を見ていることで、すべてがそこで映画という虚構となり、監督自身の姿が映されることで、
自分自身が映画としての虚構と現実の狭間の尾根道を歩いていく。
ノローグは22歳とは思えない透徹した思考の痕跡を辿る。
初国天皇と父までは同心円に重なったが福岡の地で意外な出来事が彼を待ち受ける。
それはまだ会ったことのない、彼の一ファンだった女子高生、生子ちゃんが自殺した知らせだった。
ここで彼は他者に出会った。
既に死んでいる人間。伝説の人物や父親とは異質の存在だ。
彼はドラッグの力を借りて彼女の墓前で思いを消化させようにも、うまくいかない。
彼が唯一手がかりとしたものは、ドラッグに興味を持ったらしき日記の一片と、彼女が首をくくって死んだ後に汚物で穢れないために飲食を採らずにいたという二つの事だけだった。
首に巻いたスカーフの感覚と尿の生理的な感覚だけが何かを訴えていると考える他はなかった。
墓地から街に降りていく道中も、それまでの輝いていた景色とは異なる醜悪なものに見え破壊したくなってしまう。
これまで彼が旅の道中でなし崩しに壊れていく感覚ではなく、それは積極的な破壊衝動だった。
ラスト・シーン。旅の終わりを暗示させる鉄道駅舎の上の夕暮れ空を、露出を変えながらズーム・イン、アウトを繰り返し明暗コントラストを変化させて撮った映像が続く。
ただそれだけ見たら何ということもない退屈な映像に見えるが、これは向き合いきれなかった生と、長い旅の感慨から起きた戸惑いと断絶を表現しているように思えた。
ある種の諦めの境地のようにも見えなくもないが、そう見てしまうとこの映画の魅力は半減するように思う。
とても印象に残るシーンだ。
この光景に言葉を添えるのは難しい。


まったく関係ないことだが、この映画のサントラ『はつくにしらすめみこと/原 正孝の世界』(続・音楽の基礎研究7)Bridge-050の「あてのない旅」のメロディーは伊のカンタウトーレリッカルド・コッチャンテ『MU』の「A Dio」に一部酷似している。これは全くの偶然だが、この曲の邦題は「神」で日が昇り沈むことへの感謝の歌であるところが面白い。