個性とか

本来、客観的なのは信念や態度であり、事実が「客観的」とよばれるのは、それが客観的な方法により、たどり着く性質のものであるときである。
(トマス・ネーゲル「どこでもないところからの眺め」序文)

特に「自然」が対象になっている場合には、藝術作品に対するときとは異なって、批評の領域を予め設けても意味がない。批評は注文であり、改められる可能性がなければならないが、自然はそのまま受け入れるより仕方がない。人間が自然に手を加えたり、それを利用して別のものに変えることは往々にしてあるが、それは人によって創られたものであって既に自然ではない。自然は果たして美しいものなのだろうか。この疑問は恐らく私を監視するだろう。ということは、幼年時代の、大人の感動の表現を模倣することに拠って始まってしまった自然に対しての賛美の言葉は、果たして自分自身の心からのものなのかどうか、そこに未だに疑念の集まることが時々あるからである。

また、自然についてはかなり明確な意識を持っている人が、その同じ意識を藝術にも適用できるかというと、それも無理である。…略… 自然の場合はどこまでも受け身の姿勢を崩す訳には行かない。好き嫌いは別として、花の色や形に対し、雲塊の動きに対し、また水音に対して積極的にそれに参加し、自然を美の観点によって改めることは出来ない。
串田孫一「自然の美について」)

ここに挙げた文章から考えると、実験的な作品は常に充分に意識的なものであり、言葉にならないと仮に作者が弁明しても文字通りの意味ではない。それは既存の何から扉を開けて出て行った結果である。これは信念や態度であり上の文章にあるように「客観的」なものだ。串田の文章にある「自然」と作家の直観のようなものと、予期せぬ出来事や即興的な表現を混同してはならない。観客は花の色や形や、雲塊の動きや水音と同じように受容している心理状態と似ていると思うかもしれないが、徹底的に非人工的なものを串田は「自然」と書いている。
では鑑賞中に意図せず起きたこと、ブレーカーが落ちたり、フィルムが切れたり、照明の落下のような予期せぬ事態はどうだろうか。藝術の上演最中であればそれは単に事故でしかない。作者の意図になかった人為的なミスである。作者はその一瞬を作品に取り込めるだろうし、観客は後から意識の上でそれを無きものにすることもできる。デュシャンの「大ガラス」のように事故が作品に違う影響を与える場合もある。自然の出来事には始まりもなければ終わりもない。まして意図など無いので操作は不可能だ。

実験的な作品を理解するときに大きな障害になるものに「個性」「その人らしさ」というような考え方がある。これは無駄に風呂敷が大きく厄介だ。個性も客観的なものである。それは比較によって見えてくる。表現形式と個人との差異ならずっとマシだが、個性を強く意識した作品が面白くないことは誰しも体験済みだろう(最近は「世界系」というものもあるらしいが)。何だか分からないもの、既存の作品に参照されない何かを抱えるのはストレスである。意味不明で独自なものの原因を「個性」として片づけたい誘惑が理解できなくもないが、早とちりはよくない。個性は誰にでも見出せるではないか。これを話の落とし所にしては思考は袋小路に陥る。唯一無二として話を閉じるのも同じことだ。オンリー・ワンにも必ず大勢の存在があり、目指された方向性やがあるのだ。有効か無効かは別問題だ。

果敢な実験に接するなら、「個性」の色眼鏡は外さなければならない。さもなくば既存の作品との偏差だけで未来永劫楽しめてしまうからだ。実験的なものは一見しただけでは方向すらよくわからない。その次のステージが気になってくるのだ。ループラインでの「実験」もこれと同じで、シリーズ化して初めて意味を持ってくる。それらは室内楽3CD、セグメンツ・フェスティヴァルで結果が出ている。

もうひとつ邪魔になる考えに「表現」という言葉の問題があるが、これは書いていくとなかなか手ごわいのでここでは止めておこう。

念のため書いておくが、個性的であることが駄目だと言っているのではない。あの筆致が観たい、あの演奏が、あの歌声が聴きたい、その作家の人生を一瞬で見せる藝術はひとつの真髄の目撃となる素晴らしい体験だ。私もそういう思いで接する作家は多くいる。

さて、ループラインの閉店が近づいている。あのスペースで起こった動向の、その後の動きも何やら胎動を始めているようだ。はてなどん底に突き落とし、心のキャンバス無限大を証明した成果が更地で終わるはずはない。
実験美術という言葉はない。実験音楽、実験映画、どちらも座って時間を共有するメディアだ。不満も生じよう。しかし商業的に若干頼りない分、妥協する必要もなくその方向は見易いだろう。「明日はどっちだ」(梶原一騎)という訳だ。