Stanley Brouwn

 コンセプチュアル・アートの黎明期に活躍したスタンリー・ブラウンStanley Brouwnは興味深い作家だ。
名前は知られているが、現物を観るチャンスは限りなく少ない。国内では絶望的だ。
60年代、70年代の主要な国際展に参加していてもカタログの本人のページにはいつも名前の下に「作家の意向により作品の記録は掲載できません」とあるだけで作品が掲載されることはなかった。記録画像もないのである。
その代わり彼は主に本の体裁をとったマルチプル作品を出版した。一般的には、距離と方角を扱う脱物質化の作家と紹介される。
ブラウンの作品はどういうものかというと歩くことで空間をリアライズさせることである。
作品としての基本形は以下のようなものである。
1m   1step   1foot
上の文字がその長さの線と一緒に添えられている。それが彼の作品の基本形だ。
さて、これは何を言っているのか。大雑把な言いかたをするとブラウンの作品は純粋歩行のようなものである。どういうことだろうか。
私たちは目的なしに歩くことはない。気晴らしの散歩であっても行き着く先がある。仮に私たちの歩行から目的を消し去ってみよう。夢遊病でもない限り人は無目的な行為は不可能だというツッコミが入るだろうが、目的を括弧に入れしばし忘れる、ということでいい。
つまり、どこへ、何のために、あるいはどのように、という現実の行動原理や質を消去したとする。これは距離や方角を具現するだけの無意味な行為である。
歩行は自らの2本の足で空間を移動する主体的な体験である。そしてそこには歩いた距離がある。この距離は移動した位置関係を示す物理的に測ることができる客観的な対象だ。
ブラウンが示す純粋歩行、つまり無目的な歩行が芸術として可能だとしたら、主体者の行為と、客観的な距離という2つの対象の垣根が消え、それは同時にそこに癒着したひとつのイベントということになる。
これが「空間が主客を越えて」「血肉化」(リアライズ)する、ということである。
歩くことによって、歩いた主体者である「私」が作品を空間にリアライズさせるのではなく、「私」が対象と一緒になった空間としてリアライズするのだ。
そのリアライズした空間で、垣根が消えた出来事として、行動の主催者としての「私」はキャンセルされ、客観的な距離や位置のような測れるものもキャンセルされ、コンセプチュアル・アートの経験となるというのだ。
この作品の面白いところは、所謂コンセプチュアルによくある、作品によって何かを知らされ、新たな見地から歩く行為が再認識される、というタイプのものではないこと。また“歩くことは歩くことである”というような同語反復的な行為の提示でもない。
これは独創的な表現である。イメージとしてはモーゼが紅海を渡るように空間が開かれていくというふうに考えるといいだろう。
真っ白な霧の中で踏むかのような一歩は、方位磁針の揺れのように自分の周りすべての方向に自在である。そしてそれが血肉化する。
これがブラウンの示す芸術なのである。
あらゆる可能性の詰まった純白の空間での1step、一歩、歩くこと。
あらゆる創造的行為を一言で言い切ったような、芸術のツボを一点で押さえたかのような鋭さ。これに衝撃を感じずにいられない。
頭を空白にして或る目的地まで歩く。光や風、鳥の声や生活音、建物の陰、足取りの感覚、空気の抵抗、そのすべてが出来事として瞬時に、共に生まれていく。
一歩一歩世界が始まっていくのだ。それは地図の上の距離でも、緯度経度によって測り捉えられるものではない。「本質のあらわれ」としての美しい体験である。

壁に1mと一歩の長さがの線が引いてあったりするだけで、そこまで悟れ、というのか、と思う向きもあろう。
種明かしをしよう。参考にしたのは京橋にあった画廊“かんらん舎”で90年に開かれたブラウン展の際に出版された小冊子だ。
ブラウンの作品を扱った詩が載っていた。この文章で括弧をつけて記した箇所がそこから抜粋した文言だ。
著者は川口黎爾という方。彼はどうやら画廊の常連さんのようだ。在野の賢者である。
いずれにしろかんらん舎の発信がここでのブラウンの作品のガイドである。
しかしブラウン作品のいくつかからは、その根本的な部分で的を得ていると考えられる。無断掲載は問題があるのでここでは抜粋に留めた。
いくつかブラウン作品を列挙しよう。
This Way Brouwn
彼の一番有名な作品。これはアムステルダムの市街地にブラウンが立って道行く人にどこに行けばいいか訪ねカードに地図を書いてもらう。これを夥しい数集めるプロジェクト。10万枚にも上る道はそれぞれの道を含んだ錯綜したネットワークを形成する。地図ではない歩く道筋の塊。ひとつの総体でもある空間の姿。どれもブラウン流にすれば血肉化する可能性を秘めている。この作品のステートメントの最後に「I have become direction私は方角に成る」と書かれている。
 
(タイトル失念)
 ケルンのルートヴィッヒ美術館所蔵の作品。展示ケースの中にいくつかの主要都市でブラウンが歩いた一歩の歩幅の長さ、約76cm、2cm幅くらいのアルミの薄い棒状の板がいくつか収められているもの。グレーのペンキで場所や日時が記されている。ブラウンが一歩歩いたフィールドワークである。

(タイトル失念)
 図書館で使用するカードを入れる引出しケースが壁に設置され、引出しが少し出されている。その中にはカードがいっぱいに収められ、そのカードには1stepあるいは1footの長さがセンチで書かれ入っている。大量のカードはどこでの距離なのかは不明だが、一枚ずつ引き出せるようにしている。距離を束の形で、どこからでも抜き取れるようにしている。川口の詩にある「密度」、「深まり」の姿だろうか。

1x1m 1x1step
アントワープの画廊が作ったマルチプル。1x1mの大きさの紙と1x1stepの大きさの紙が折りたたまれて入っている。装丁上たたまれているが、広げてみさせる意図があるように思える。

パフォーマンス:一歩歩く
ソンズビーク71というオランダで開かれた国際展で行われたもの。内容不明だがパートナーを伴って行うもの。恐らく一緒に一歩歩くだけではないだろうか。パートナーは日本のコンセプチュアル・アートの極北、松澤宥であった。