録音

 自分は物事を相対的に見たい(理解したい)とは思っていなくて、何というか、運命の出会いじゃないが、他とは変えられないものとして、それに向き合いたいと思っている。
録音も意識的に行ってもうすぐ四半世紀になる。
ロケ地は以前からずっと変わらない。何箇所か新たな場所が増えたが、それは或る所から足を伸ばしただけである。
仕事をしながらではあるが、それだけの期間向き合っていると場所の持っている性質のようなものが見えてくる。
近年、マイクを思い切って新調したので、以前より解像度が格段に上がり、ますます不可解な音が録音できるようになった。
心霊写真じゃないが、何かが映っている(録れている)ようなものが録れることが増えた。
以前は時間の構造などと考えていたが、やはり自分にはそういう時間ベース、音楽の基盤のような思考はそぐわないようで、単純に場所の歴史のようなものを前提に考えることが一番落ち着くものだということが分かってきた。
実験的な音楽シーンでは所謂「フィールドレコーディング」という表現があるが、そこで作家たちは何を録音していて、そこで何が問題になっているのか、自分にはいまいち分からない。「フィールド」が見えてこないのだ。そういえば今まで録音で話が合った人に出会ったことがない気がする。
ピサロは音楽家の視点がハッキリしているし、マンフレッドはそもそも録音しなくてもいい。
リー・パターソンは恐るべき音色マニア。
それじゃお前は何をしてるんだ、というと、単純に場所と向き合っているだけだと思う。
大げさに言うとタルコフスキーの映画「ストーカー」のゾーンのようで、場所はこちらの意識の向け方次第で、表れてくるものが違ってくる。気の迷いか、気のせいだと思われるかもしれないが、そういうものはやはりあると実感している。
またそれは自分の頭の中にあるのではなくて、自分との間に生じるものと信じている。
何かが映っているような録音は、恐らく他人にも何かが伝わると思っている。
自分の意識が伝わらなくとも、何か考えがあっての結果だというところまでは伝わるだろう。
ウィンドジャマーを付けたワンポイントマイクではダメだ。それでは音しか録れない。既に目的が限定されている。音の外にあるものを録ることはできない。
対象とマイクの距離、ステレオなら二つのマイクの位置が対象に焦点を与え、その焦点から何かが表れてくる。
その意味で、録音は志向性の表現だと考える。
距離と位置を決めるのは自身の意識だ。そこに物理的にないものも見えてくる筈だ。
 主なロケ地の三浦半島は町と自然が隣り合っているせいか、多幸感と安堵感に満ちてる。生まれ育った場所だからか、郷土史書籍を読むと景色が新鮮に見えてくる。

話しを最初に戻すと、自分にとってフィールド録音はいくつかある表現手法のひとつではない。それでできる同じことが他にないのだ。
映像や写真とはやはり違う。
相対的に、作品の構造から録音の扱いを考えたら、録音素材も置き換え可能な、任意の数値nに過ぎないかもしれない。しかし私にとってそのnはAでもBでもなく、それでないといけない。根拠はないが、その値こそが肝で、そこに執着したい。
そこにこそ、作り手として満たされるものがある。