作品のうしろ

作品(絵)のうしろというものを考えてみる。
作者がどうしてそれを描かせたのか、ということの比喩。当人の意思は作品のフィニッシュから誰しも見えるわけではない。そんなもの見える訳ない、表面しかないでしょ、絵なんて色と形だろう?という発想は180度回転しただけ、美術作品に慣れすぎたところからの発言だろう。私たちの眼はセンサーじゃない。
 高校の頃、鎌倉近代美術館でホルストヤンセンの展覧会があった。その時のポスター、茶色っぽい紙に色鉛筆と描かれたウサギの剥製か毛皮の絵だったが、街で目にした時、毛皮がふわふわで本当に驚いた。立ち止まってしげしげと見ると、白の色鉛筆で毛並が丁寧に描かれている。近づけば単なる線の集積だが、一定の距離から見ると本当にふわふわ柔らかく膨らんでいて非常に感心した。展覧会でポスターも購入、しかしその後、どうみてもその絵は最初に見えたようにふわふわには見えない。いくら観ても鉛筆のタッチにしか見えない。輸入の画集でも同じだ。あの時、ポスターの前でしげしげと見比べた時に、確かに見えていたものがその後二度と見えない。
ナンセンスな小説を書く作家が、初めてシンクロエナジャイザーを使った時、虹色に輝く幻想が脳内で見え、即決で15万くらいのエナジャイザーを購入、しかし二度と虹は現れなかったと書いていたのを読んだことがある。私のウサギのふわふわもこれと同じなのか?否と言いたい。
 浪人時代に竹橋の近代美術館で幾何学抽象画、構成主義絵画展のような催しがあり、これも実に楽しい展覧会だったが、その時モンドリアンの15号くらいの絵がゆっくり回転して見えたことがあった。今考えるとオカシなことだが、当時の私は、なるほど、そういうことだったのか、やっぱり画集じゃ分からないな、とほくほく帰宅し、翌日予備校で得意げに話したら多浪生が「モンドリアンって絶対的に静止した絵を作りたかったんじゃないの?」と言われがっかり納得したことがあった。これは、まぁ浪人中で精神的に先走っていたせいで視聴覚がオカシくなていたに違いないとも思う。しかし後になって、カルダーが「あなたの絵は動かない」と言ったのに対しモンドリアンは「私の絵はこれでも回転しているのです」と答えたのを読んで思わずガッツポーズをした。
何というか、気持ちが純化しているときには、作家の精神が絵の裏から見えてくるのではないか?ヤンセンが愛しむようにして描いたふわふわ、モンドリアンの神秘的な抽象思考が作品のうしろから現れたのではないか。
初めて観た時のことなら、それは経験値の問題じゃないの、というツッコミは置いといて、前衛的な作品ではどうだろうか。
 或る時期、比較的初期のジョン・ケージの作品はガムラン音楽のリズムを模したような作品がある。無調性を知った後にリズムに注目するのも当然の流れだと思えるが、それよりもいままでの西洋音楽に別の、生生しい姿を取り戻そうとしているように聴こえる。それまでの西洋音楽がカテドラル式に、上昇的に組み立てられていったとしたら、ケージはこの頃、粘土を平らに伸ばして広げるような造形をしているように感じる。どこかでオリエンタリズムが彼の心を捉えたんじゃないだろうか。ライヒポリリズムに魅せられたが、横へ横へと広がった作品にはならなかった。ケージがその後、禅に影響を受けて手法を放り投げ、まるで庭師のような作曲をしていくのとは別に、ライヒは宙に浮いたまま、上昇の世界観に戻っていく。ケージはいつでもぺたっと地べたに座っている。
この2人の作曲家に関して私は僅かながら知識はある。しかしそれは興味をそそりはするものの、所詮、なるほどの域を出ない。
 充分に私の思い込みバイアスがかかっていると思うが更にイッてしまおう。作品それぞれから何らかの印象を受ける原因の根っこは、堅い言葉だが、作家の精神性と呼べるものではないだろうか。客観的な視点で芸術作品を理解するよりも、むしろ前時代的な対立軸、精神と肉体とか形象とイデアなどを投入して見ていったほうが、作品はずっと有り難いものになるんじゃないだろうか。対立は関係を生み出す。関係は私を保証する。
 作家の個と、観る者の個がぶつかって作品が芸術になる。右手と左手で拍手が聴こえるように。時代と作品がぶつかって鳴っている音は文化かもしれないが、それは個にとって芸術ではない(と思う)。