私の制作について

フィールド録音のフィールドとは何か?
マイクが拾う空間の情報、或る場所で聴こえる音の範囲、それならばその最下層にあるような振動を録音してみよう。
コンタクト・マイクや小型マイクを使って、通常意識的に聴こえてこないようなものに焦点を合わせた。絵画の下地のようなものに。
録音を続けていくと、その場所なりのキャラクターのようなものが段々と見えてくる。
地形が響きを作るなら、そこには場所の歴史が関係しているだろう。
言葉や史跡が過去を残すように、現在聴こえる響きには歴史が宿っているのではないか。
音が始まりも終わりもなく途切れないのなら、過去が同時に鳴っていると考えてもよいだろう。
また、考え方によって見えてくるものがあるように、特定の解釈によって、その場所の振動を新たに聴くことができるのではないか?
点描で光を意識した絵があるように、
私の場合、録音は記録ではなく描写に近いかもしれない。
意識は頭の中にあるものだが、それを引き出すのは外の出来事でもある。
だとすれば、私の頭の中にある意識の働き、志向性は、その対象である場所の振動に関係があると考えてもいいだろう。
それによってこそ、フィールドは像を結ぶのではないか。
意識を通して場所を経験する。その経験は地図を見るようなものではない。
風景は地図ではない。それは人に「像」として受容される。
知覚や意識が風景を掬い、風景が意識や知覚を掬う。
意識が風景を描き、風景が意識を描く。
しかしそれでは終わらない。
その像は誰かと共有できるだろうか?
他人の意識の働きを知ることはできない。
場所は自他を越えて在る。
場所や風景を、各自の主観を超えて「像」として結ばせることはできないだろうか。
主観を超えたところに、客観的なアプローチではなく主体的なものとして像を結ばせる。
響きがどんなであるかは本人にしか分からない。響きは、在ること、居ることに呼応している。
それを手の届く範囲で形にしようとする行為が、録音を含めた自分の制作なのだろう。