カタリーナ・フリッチュはサウンド・アートではありません

ドイツの彫刻家、カタリーナ・フリッチュは数枚レコードを出している。
これは美術界の所謂マルチプル作品で、具体音の彫刻のようなもの、と解釈するのが正しいと言える。
フリッチュは自分の生活の中で出会った印象に残る事象を彫刻として表す作品である。船の柄がプリントされた花瓶だったり、鍵の束だったり、マリア像であったり、
見かけは非常にシンプルでそれにしか見えないようなもので、リアルな色使いではなく、ミニマルに単色化されているものが多い。
彼女は自分の人生で出会ったものを、決して私小説のようなところには落とさず、誰にでも同じ意味を持つ記号のような形で提示する。
花瓶はフリッチュが、いつ、どのように見たかは何も語らない。花瓶は私たちにもただの花瓶にしか見えない。
そうすることで世界との出会いを促すものだと私は理解している。
そこには現代美術の流れとして、プライマリー・ストラクチャーやカラーフィールド・ペインティングへの、参照と批判があるところが鑑賞の際のポイントだろう。
非常に美しい作品である。
彼女のレコードのひとつに45回転のドーナツ盤で、救急車のサイレンを吹き込んだものがある。
数分で終わるレコードだが、しばらく音がしないが、ゆっくりと救急車のサイレンがフェイド・インし、ドップラー効果と共に遠のいていくものだ。
ノイズリダクションを深めにかけたのか、若干こもった感じで他の音は聴こえない。
何も面白いものも感じさせないそのまんまの音だ。
さて、それではこの音盤は何だろう。
救急車のサイレンは誰にでも同じような感覚を呼び起こすだろう。
近所の誰かが倒れたのではないか?段々近づいてくる。隣の家のおばあさんだろうか?
そして過ぎ去っていく。ほっと安心する。
幼い頃、誰しもそんな不安を経験したことがあるだろう。
フリッチュがどんな不安を抱いたか私たちは知らないし、知る必要はない。
しかし普段耳にする救急車の音に私たちはそのような接し方をしている。
これを世界から一旦取り出し、オブジェのように眺めるのは面白いではないか。
実際、ドップラー効果心理的なものと対応しているように思え、不安な印象がゆっくりとほどけていく様と同調して聴こえる。
これを、具体音の録音だから即、フィールド・レコーディングの作品だ、サウンド・アートだと考える短絡には笑止千万である。
フリッチュとしたら完璧にできるものなら、シンセサイザーで作った音だったとしても問題は無かっただろう。
「〜系」のような短絡は味わう時間は当然のこと、評論すらすっ飛ばして加速している。
物が、情報が多すぎるからだけだろうか?
何も考えないことが楽になったからではないだろうか。
フリッチュの音盤と同じような扱いにヨーゼフ・ボイスの「Ja ja ja・・・」のレコードがある。
あの音盤のCD理イシューを音声詩としてレビューしていたものを読んだことがある。
呆れたというより、少し怖くなった。
音盤は時代を超えて残り、そこから新たな脈絡を加えられたりして評価されていくものだと理想的に考えていたからだ。
現物はそりゃ高いでしょう。マルチプルだし、自主レコードとして流通させたものではありませんから。
有名な作家ですから当然カタログ本には載りますよ。コレクターには気になるものでしょう。
そういう本にはカタログ番号とジャケ写しか載りません。
しかし、しかしである。
かつて日本のCMにも出演したくらいの、あのボイスである。少しは活動を調べてからレビューを書いてほしいものだ(別の意味で彼は「詩人」ではあったが)。
情報は溢れかえっているというのに、的確に調べることはできず、肝心なことは何もわからないのだ。
マイナーな世界は評価基準の厳しいところがいいのではないか。
ただ盤だけを発見し、似たもの同士を系統分けする。

あぁ、くだらない!