フォレストリミット

今日は来月の展示の梱包作業をしながら明後日の鼎談の準備をしていた。
佐々木さんといえば音響派と聴取に関する考察をいくつか書かれている。
最近は大学でフィールド録音の講義もされているという。
沼倉氏と共に数回メールのやりとりしているが、佐々木さんは拓さん(杉本拓)のことに触れていた。
それに関する答えは私には力不足なので、ループラインが発行した小冊子の氏の論考「実験音楽入門」にズバリ書いてあるのでお見せしよう。
今日、久々に読んでみたが、実に明快に書かれている。
私もあそこで行われていた室内楽シリーズについて書いたが、
原稿を頼まれた時点では閉店の予定は無かったので、興味を持つ人へのお薦めというノリで書いたものだった。
ある方があの冊子の論考に対して、
共通感覚や約束事をあえて踏み外し、一般的なものとして表現する言葉が存在しない、というようなことを書かれていた。
確かに作家対談の一部で、何を言いたいのか分からない部分が無いわけではないが、
少なくとも拓さんの文章にそれは当たらないと思う。

どうも「実験音楽」という言葉に何かひとつの実体や共通する作法のようなものがあると思う人が多いようだ。
あるいは特殊な表現を即、個性に結びつけたがる傾向が根にあるような気がする。
その色眼鏡で見たら何でも、どこにでもあるものに見えてしまうだろう。
そのあたりを含めてうまいこと書いてると思うのだが・・・。

例えばシュールレアリスムという言葉がそもそも意味したものが、実際には全く違う意味になって伝わっているように、
揶揄された呼び名が、時間が経って正確な定義を必要とする概念になっていたりすることもあるので、
言葉は信頼しつつ限界を見込んでいかないと疲労してしまう。

物書きや評論をやる人は大変だ。私なんぞは、印刷された本の文字を消しゴムで消そうとやっきになる幻想が浮かび、思わずぞっとしてしまう。
私は作家の戯言というスタンスに甘えているので、好き勝手に質問ができてお気楽である。
明後日は「音を直接耳に届ける」聴取とは反対にあるものの例を挙げてお二人に質問してみたいと思う。
数枚音盤を持参する予定。

さて昨日は「Yesssongs」を30数年ぶりに聴きかえし堪能した。
リック・ウェイクマンのソロのフックのあるメロディーとか「Fish」の星空を思わせるアレンジや、意外とさわやかな「危機」が懐かしかった。
ついでにマーティン・デニーの「クワイエット・ヴィレッジ」のMONO盤もあったので購入。
あのアルバムの「SAKE ROCK」のとぼけた響きが好きだなぁ。
明後日はよろしくお願いします。

【鼎談:聴く事について考えてみる】

2012年1月24日(火)
19:00open20:00start
【パネラー】
佐々木敦(批評家)
角田俊也 (アーティスト)
沼倉康介(nadukeenumono主催)

【企画概要】

「音」を「音響芸術(サウンドアート)」として聴取し、

あるいは批評する時、聴取者は個人的記憶やその素地となる

歴史的/文化的認識などによって複合的に「音」と向き合います。

その複合的な判断のなかで、より確実性の高い情報(視覚や触覚、記憶など)

へ関心が集中し、本来一義的な聴覚体験とその対象である「音」

への関心は隅へ押しやられてしまいます。

「音」を感覚するのは、その一過性や不可視性において不確かなのでしょうか?

聴取の不確実さを、聞くことの具体的な体験と照らし合わせて考える事で、

問題を明らかにし、音響芸術の批評における、

よりダイレクトで実践的な方法について考えたいと思います。

パネラーには、音楽レーベルの運営やイベント企画で音楽制作に深く関わる批評家の佐々木敦氏、

聴く事を根本的に問い直すような作品を作り続けていらっしゃるサウンドアーティストの角田俊也氏、

コーディネーターとして実験音楽レーベルnadukeenumono主催の沼倉康介氏をお招きし鼎談を致します。

企画/運営:沼倉康介、フォレストリミット

http://forestlimit.com/fl/?p=2293