重ね合わせ

空間という言葉を意味合いから逸脱して解釈してみよう。

3人の人に一斉に声を出してもらう。
「あ」「い」「う」
同時に重なった音響。それぞれの個々の音を聴き取ることはできない。
「あ」「い」「う」をフォントを重ねたら、潰れたような読めない文字になり空間は感じられない。
判別できなくても、声は響きだから空間的。文字は、図としてみたら空間ではない。
次。
樹のシルエットを画用紙に描く。
もう一本の樹のシルエットをその紙に重ねて描く。
これはフォントの重ね合わせと同じやり方だが、下に描かれた形の上に描く時、
それを完全に無視するのは難しい。線を重ねるときに、ちょっと抵抗を感じるし、下の線を見ながら重ねたりするだろう。
白紙に描く場合とは違う。
そもそも、二重に樹の形を重ねようとする時、樹との距離を考えてしまう。
ここに「空間」は在ると言えるのではないか。

フォントには空間はないが、手で書いた文字には空間は在る。書いてる間の時間がある。書かれた時が在る。
空間には時間が伴う。

物理的にはデタラメになるが、
デ・ジャヴにしろ、記憶の交錯にしろ、人は空間や時間を重ねるように考える事はできる。
人間の空間や時間はもやもやしてはっきりした実体がない。
曖昧で詩的。
嵩とか塊とか層とか・・・ひととき、つかの間・・・
そいいうところに芸術が「居」や「意」を構えるのではないか。

私の制作について

フィールド録音のフィールドとは何か?
マイクが拾う空間の情報、或る場所で聴こえる音の範囲、それならばその最下層にあるような振動を録音してみよう。
コンタクト・マイクや小型マイクを使って、通常意識的に聴こえてこないようなものに焦点を合わせた。絵画の下地のようなものに。
録音を続けていくと、その場所なりのキャラクターのようなものが段々と見えてくる。
地形が響きを作るなら、そこには場所の歴史が関係しているだろう。
言葉や史跡が過去を残すように、現在聴こえる響きには歴史が宿っているのではないか。
音が始まりも終わりもなく途切れないのなら、過去が同時に鳴っていると考えてもよいだろう。
また、考え方によって見えてくるものがあるように、特定の解釈によって、その場所の振動を新たに聴くことができるのではないか?
点描で光を意識した絵があるように、
私の場合、録音は記録ではなく描写に近いかもしれない。
意識は頭の中にあるものだが、それを引き出すのは外の出来事でもある。
だとすれば、私の頭の中にある意識の働き、志向性は、その対象である場所の振動に関係があると考えてもいいだろう。
それによってこそ、フィールドは像を結ぶのではないか。
意識を通して場所を経験する。その経験は地図を見るようなものではない。
風景は地図ではない。それは人に「像」として受容される。
知覚や意識が風景を掬い、風景が意識や知覚を掬う。
意識が風景を描き、風景が意識を描く。
しかしそれでは終わらない。
その像は誰かと共有できるだろうか?
他人の意識の働きを知ることはできない。
場所は自他を越えて在る。
場所や風景を、各自の主観を超えて「像」として結ばせることはできないだろうか。
主観を超えたところに、客観的なアプローチではなく主体的なものとして像を結ばせる。
響きがどんなであるかは本人にしか分からない。響きは、在ること、居ることに呼応している。
それを手の届く範囲で形にしようとする行為が、録音を含めた自分の制作なのだろう。

作品のうしろ

作品(絵)のうしろというものを考えてみる。
作者がどうしてそれを描かせたのか、ということの比喩。当人の意思は作品のフィニッシュから誰しも見えるわけではない。そんなもの見える訳ない、表面しかないでしょ、絵なんて色と形だろう?という発想は180度回転しただけ、美術作品に慣れすぎたところからの発言だろう。私たちの眼はセンサーじゃない。
 高校の頃、鎌倉近代美術館でホルストヤンセンの展覧会があった。その時のポスター、茶色っぽい紙に色鉛筆と描かれたウサギの剥製か毛皮の絵だったが、街で目にした時、毛皮がふわふわで本当に驚いた。立ち止まってしげしげと見ると、白の色鉛筆で毛並が丁寧に描かれている。近づけば単なる線の集積だが、一定の距離から見ると本当にふわふわ柔らかく膨らんでいて非常に感心した。展覧会でポスターも購入、しかしその後、どうみてもその絵は最初に見えたようにふわふわには見えない。いくら観ても鉛筆のタッチにしか見えない。輸入の画集でも同じだ。あの時、ポスターの前でしげしげと見比べた時に、確かに見えていたものがその後二度と見えない。
ナンセンスな小説を書く作家が、初めてシンクロエナジャイザーを使った時、虹色に輝く幻想が脳内で見え、即決で15万くらいのエナジャイザーを購入、しかし二度と虹は現れなかったと書いていたのを読んだことがある。私のウサギのふわふわもこれと同じなのか?否と言いたい。
 浪人時代に竹橋の近代美術館で幾何学抽象画、構成主義絵画展のような催しがあり、これも実に楽しい展覧会だったが、その時モンドリアンの15号くらいの絵がゆっくり回転して見えたことがあった。今考えるとオカシなことだが、当時の私は、なるほど、そういうことだったのか、やっぱり画集じゃ分からないな、とほくほく帰宅し、翌日予備校で得意げに話したら多浪生が「モンドリアンって絶対的に静止した絵を作りたかったんじゃないの?」と言われがっかり納得したことがあった。これは、まぁ浪人中で精神的に先走っていたせいで視聴覚がオカシくなていたに違いないとも思う。しかし後になって、カルダーが「あなたの絵は動かない」と言ったのに対しモンドリアンは「私の絵はこれでも回転しているのです」と答えたのを読んで思わずガッツポーズをした。
何というか、気持ちが純化しているときには、作家の精神が絵の裏から見えてくるのではないか?ヤンセンが愛しむようにして描いたふわふわ、モンドリアンの神秘的な抽象思考が作品のうしろから現れたのではないか。
初めて観た時のことなら、それは経験値の問題じゃないの、というツッコミは置いといて、前衛的な作品ではどうだろうか。
 或る時期、比較的初期のジョン・ケージの作品はガムラン音楽のリズムを模したような作品がある。無調性を知った後にリズムに注目するのも当然の流れだと思えるが、それよりもいままでの西洋音楽に別の、生生しい姿を取り戻そうとしているように聴こえる。それまでの西洋音楽がカテドラル式に、上昇的に組み立てられていったとしたら、ケージはこの頃、粘土を平らに伸ばして広げるような造形をしているように感じる。どこかでオリエンタリズムが彼の心を捉えたんじゃないだろうか。ライヒポリリズムに魅せられたが、横へ横へと広がった作品にはならなかった。ケージがその後、禅に影響を受けて手法を放り投げ、まるで庭師のような作曲をしていくのとは別に、ライヒは宙に浮いたまま、上昇の世界観に戻っていく。ケージはいつでもぺたっと地べたに座っている。
この2人の作曲家に関して私は僅かながら知識はある。しかしそれは興味をそそりはするものの、所詮、なるほどの域を出ない。
 充分に私の思い込みバイアスがかかっていると思うが更にイッてしまおう。作品それぞれから何らかの印象を受ける原因の根っこは、堅い言葉だが、作家の精神性と呼べるものではないだろうか。客観的な視点で芸術作品を理解するよりも、むしろ前時代的な対立軸、精神と肉体とか形象とイデアなどを投入して見ていったほうが、作品はずっと有り難いものになるんじゃないだろうか。対立は関係を生み出す。関係は私を保証する。
 作家の個と、観る者の個がぶつかって作品が芸術になる。右手と左手で拍手が聴こえるように。時代と作品がぶつかって鳴っている音は文化かもしれないが、それは個にとって芸術ではない(と思う)。

録音

 自分は物事を相対的に見たい(理解したい)とは思っていなくて、何というか、運命の出会いじゃないが、他とは変えられないものとして、それに向き合いたいと思っている。
録音も意識的に行ってもうすぐ四半世紀になる。
ロケ地は以前からずっと変わらない。何箇所か新たな場所が増えたが、それは或る所から足を伸ばしただけである。
仕事をしながらではあるが、それだけの期間向き合っていると場所の持っている性質のようなものが見えてくる。
近年、マイクを思い切って新調したので、以前より解像度が格段に上がり、ますます不可解な音が録音できるようになった。
心霊写真じゃないが、何かが映っている(録れている)ようなものが録れることが増えた。
以前は時間の構造などと考えていたが、やはり自分にはそういう時間ベース、音楽の基盤のような思考はそぐわないようで、単純に場所の歴史のようなものを前提に考えることが一番落ち着くものだということが分かってきた。
実験的な音楽シーンでは所謂「フィールドレコーディング」という表現があるが、そこで作家たちは何を録音していて、そこで何が問題になっているのか、自分にはいまいち分からない。「フィールド」が見えてこないのだ。そういえば今まで録音で話が合った人に出会ったことがない気がする。
ピサロは音楽家の視点がハッキリしているし、マンフレッドはそもそも録音しなくてもいい。
リー・パターソンは恐るべき音色マニア。
それじゃお前は何をしてるんだ、というと、単純に場所と向き合っているだけだと思う。
大げさに言うとタルコフスキーの映画「ストーカー」のゾーンのようで、場所はこちらの意識の向け方次第で、表れてくるものが違ってくる。気の迷いか、気のせいだと思われるかもしれないが、そういうものはやはりあると実感している。
またそれは自分の頭の中にあるのではなくて、自分との間に生じるものと信じている。
何かが映っているような録音は、恐らく他人にも何かが伝わると思っている。
自分の意識が伝わらなくとも、何か考えがあっての結果だというところまでは伝わるだろう。
ウィンドジャマーを付けたワンポイントマイクではダメだ。それでは音しか録れない。既に目的が限定されている。音の外にあるものを録ることはできない。
対象とマイクの距離、ステレオなら二つのマイクの位置が対象に焦点を与え、その焦点から何かが表れてくる。
その意味で、録音は志向性の表現だと考える。
距離と位置を決めるのは自身の意識だ。そこに物理的にないものも見えてくる筈だ。
 主なロケ地の三浦半島は町と自然が隣り合っているせいか、多幸感と安堵感に満ちてる。生まれ育った場所だからか、郷土史書籍を読むと景色が新鮮に見えてくる。

話しを最初に戻すと、自分にとってフィールド録音はいくつかある表現手法のひとつではない。それでできる同じことが他にないのだ。
映像や写真とはやはり違う。
相対的に、作品の構造から録音の扱いを考えたら、録音素材も置き換え可能な、任意の数値nに過ぎないかもしれない。しかし私にとってそのnはAでもBでもなく、それでないといけない。根拠はないが、その値こそが肝で、そこに執着したい。
そこにこそ、作り手として満たされるものがある。

ヒカリエ

http://pr.nikkei.com/ART/archives/2014autumn-3/
これに出ます。しかしほぼ無名の私を引っ張り出して凄いタイトル・・・・
去る夏は訳あって海外遠征をキャンセルし芸大の音環科でレクチャーとCON/cretismのイベントでトークをしましたが、今回は続けて3本目。
音環科では2時間ぶっ続けでその後も2時間、佐々木さんとのトーク、質疑応答で相当話しました。私の「信じるしかない」発言が会のピークでしたね。
今回も佐々木さんが登場してくれますが、かつての教え子で画家の千葉正也氏*がそこに混じり話の落としどころが見えにくい感じがします。まぁ、何とか楽しくやれそうですが。無料ですが、ニッケイに登録しないといけないというのがハードル高そうですね。
お気持ちに余裕がございましたらいらしてください。


ツイッターなどで哲学的なエッセイを書く千葉雅也氏ではありません

コンクレーティズム

http://www.editionnord.com/event/concretism/

あの「ロックマガジン」の阿木譲氏のこの企画、23日の埼玉県立近代美術館主任学芸員の梅津元さんの企画に、オプトロンの伊東さんと参加します。
この日は阿木さんは会場にいません。
私のライヴは以前、塾ボックスや栃木県美などでやったことのあるアレです。
話もできるので、ちょっとアレンジを変えてみようと思います。
よろしければ是非!
80年代の貴重なカセットやレコードの並ぶ阿木さんの資料展示も面白いですし、
阿木さんが作ってる0gという完全自主本は「ロックマガジン」っぽくって欲しくなりますよ。
現在2.5バージョンまで出ていて、私も1と2を会場で買う予定です。

8/23 18:00- _ スピンオフ2|Sound of the Real|入場料2000円|企画:梅津元
美術/視覚と音楽/聴覚の双方を視野に入れ、コンクレーティズムと交差するリアルな音の在処を問う。
サウンドトーク=梅津元[埼玉県立近代美術館主任学芸員/芸術学]
トーク&ライブ=角田俊也[フィールドレコーディング/アーティスト]
トーク&ライブ=伊東篤宏[美術家 / OPTRON プレイヤー

バックグランド

 今朝の「日曜美術館」は志村ふくみという染織家が特集されていた。染料になる植物を集め、糸を染め自ら織っていく作業過程での発言は示唆に富み、興味深いものがあった。工房で共に働く若い女性作家の、植物の命が失われたのではなく、色彩になって織物の移動していく、という発言も心に残った。手のかかる作業、気が抜けない仕事である。上品な色彩に染められた糸は陽光に当てられ金色に輝いて美しい。蓮の茎から糸を作るというのも驚いた。現在、志村氏が織っている大きな抽象画のような青い布を見せながら、これは僧侶が旅をして、海に行き、これから織っていく山に行く、そういうものを表現している、織ることは旅をするのと同じ、と語っていた。機織などしたことないが、なるほどと納得できる意見だ。染織に興味が出てきた。しかし、しかしである。工房で仕立てられた着物になった途端、何かがごっそりと消えた。そして着物の発表会を兼ねた集いでの婦人たちの和服姿には、あの尊くも素晴らしい繊細な作業は見えてこない。その魅力は消して余りあるほどに退屈極まりない世界だった。自然と人との美しい関係は一切見えてこない。あの折角の糸と染料はどこに消えてしまったのだろうか。そこが染織の正しい落としどころなのだろうか。以前、資料で見た芭蕉布の着物姿にはこのような違和感はまったく感じなかったので衝撃は凄まじい。一体これはどういうことなのだろうか。工芸の世界独特の事柄なのだろうか。近代絵画や現代美術はその制作作業のバックグランドを見せられても作品の評価に変わりはない。むしろ切り離されることで見えてくる世界だ。制作プロセスを想像させる作品であってもそうだ。ウォルフガング・ライプの花粉も現代美術作品として例外ではない。瞬間の世界に属している。ここで言うバックグランドとは文脈のことではない。文学作品にはそのようなバックグランドは無い。物体を作っているのではないからだ。文学の場合、同じ意味で重要なのは思想的文脈である。文人画や詩人の絵が時に面白いのは、作家の思想をそこに重ね合わせるからである。工芸の世界にはバックグランドの面白いものが多々ある。自然を相手にする制作は否が応でも大きなサイクルに巻き込まれるからなのだろうか。それは生態系を想わせる。バックグランドが見えたからどうだとか、どちらが良いとかではないが、料理よりも厨房が面白いような、あまりのギャップに考えさせられた。結論。染織と着物は別々の世界なのだ。
(どうでもいいが「日曜美術館」のBGM、何とかならんかなぁ…)