バックグランド

 今朝の「日曜美術館」は志村ふくみという染織家が特集されていた。染料になる植物を集め、糸を染め自ら織っていく作業過程での発言は示唆に富み、興味深いものがあった。工房で共に働く若い女性作家の、植物の命が失われたのではなく、色彩になって織物の移動していく、という発言も心に残った。手のかかる作業、気が抜けない仕事である。上品な色彩に染められた糸は陽光に当てられ金色に輝いて美しい。蓮の茎から糸を作るというのも驚いた。現在、志村氏が織っている大きな抽象画のような青い布を見せながら、これは僧侶が旅をして、海に行き、これから織っていく山に行く、そういうものを表現している、織ることは旅をするのと同じ、と語っていた。機織などしたことないが、なるほどと納得できる意見だ。染織に興味が出てきた。しかし、しかしである。工房で仕立てられた着物になった途端、何かがごっそりと消えた。そして着物の発表会を兼ねた集いでの婦人たちの和服姿には、あの尊くも素晴らしい繊細な作業は見えてこない。その魅力は消して余りあるほどに退屈極まりない世界だった。自然と人との美しい関係は一切見えてこない。あの折角の糸と染料はどこに消えてしまったのだろうか。そこが染織の正しい落としどころなのだろうか。以前、資料で見た芭蕉布の着物姿にはこのような違和感はまったく感じなかったので衝撃は凄まじい。一体これはどういうことなのだろうか。工芸の世界独特の事柄なのだろうか。近代絵画や現代美術はその制作作業のバックグランドを見せられても作品の評価に変わりはない。むしろ切り離されることで見えてくる世界だ。制作プロセスを想像させる作品であってもそうだ。ウォルフガング・ライプの花粉も現代美術作品として例外ではない。瞬間の世界に属している。ここで言うバックグランドとは文脈のことではない。文学作品にはそのようなバックグランドは無い。物体を作っているのではないからだ。文学の場合、同じ意味で重要なのは思想的文脈である。文人画や詩人の絵が時に面白いのは、作家の思想をそこに重ね合わせるからである。工芸の世界にはバックグランドの面白いものが多々ある。自然を相手にする制作は否が応でも大きなサイクルに巻き込まれるからなのだろうか。それは生態系を想わせる。バックグランドが見えたからどうだとか、どちらが良いとかではないが、料理よりも厨房が面白いような、あまりのギャップに考えさせられた。結論。染織と着物は別々の世界なのだ。
(どうでもいいが「日曜美術館」のBGM、何とかならんかなぁ…)