余白

 トマス・ネーゲル「どこでもないところからの眺め」をちんたらちんたらと読んでます。
「・・・これまでかかわりをもてなかった他の事物の存在や、われわれのような生物が必要な反応や概念を開発できなかったためにかかわりをもてない他の事物がまだまだ存在しているかもしれないということをわたしたちが認識できる、ということだ。この想定が、有意味な思考の条件と齟齬をきたすと思えない。さらにいえば、以上のことを否定する人は謙虚さにかけている。たとえ、その否定が、存在と真理の概念にかんする理論をもちだして擁護されていたとしてもだ。観念論というのは、つまり、最も広い意味で存在するものは最も広い意味でわたしたちが思考できるものと一致しなければならないという見解は、宇宙を自分の身の丈にあわせて削ろうという試みなのである。」

いいですね。簡単にいうと余白を持つ、ということか。

どうも我々は物事に科学的見地による決定を採用しすぎている気がする。

例えば飛んできた鳥を見るとき、この鳥は何という種類かな、今の季節が活動時期なのだな、とか雀より大きいかな、とか、餌を探してるんだなとか、天敵は何かなとか、何に反応して飛び立ったのかとか、色々思うわけですが、この時点で鳥を生物学的に見ていて、もしかしたら、その翼の色や模様からどこか遠くの風景を思い出したり、形の印象から特定の味を連想したり、というような、ほとんどナンセンスな連想は無意識に無視している。

前者は白紙からその鳥について語れるが、そんなナンセンスは感覚の品評会、退屈な会話に過ぎない、ということになるだろう。
だが、そんな出鱈目な戯言のような感覚だが脳のなかの引き出しが少し開いたのだから得るものはあるのではないか。
意味付けの関係図がかけない、点のような体験があっても問題はない。
感覚はSenseだがセンサーではない。