インスタレーション

 2001年頃。或る展覧会で私はインスタレーションを発表した。
その作品は自分なりに日常空間起る現象を考えた結果として、その当時は気に入っていた。
しかし展示期間が終わる頃、ふと気づいて愕然としたことがあった。
それは近代美術館の展示案内に使われたクレーの絵だった。
その絵で得られることは私が作ったインスタレーションと似ていた。
絵画!
絵画空間をなめてはいけない!
それは平面の凹凸ではない。
連綿と続いた絵画の歴史によって出来上がった土俵のことだ。
サッカーにしろ野球にしろ、そのゲームの基盤は一夜にしてできないのと同じで、
絵には現実の空間の厚みを押し殺した独自な意味の空間があるのだ。
それは最初から洗練されている。
それに比べたら自分のインスタレーションは惨めだった。
本物の花の前の造花だ。
日常空間で起っているものをわざわざモデルにして、現実空間に干渉させてどうするのか。


インスタレーションはオブジェとは異なる。
オブジェは人体彫刻と同じで、その作品(物体の塊)の持つマッス(量)の中に完結していて構わない。
(もちろん彫刻にも現実の量を採用した独自の芸術空間がある。オブジェは変り種の彫刻という認識でいいのではないか。)
私のそのインスタレーションは、今考えればちょっと大きめなオブジェだったと思う。
その後、設定を変えて何度か確かめたみたが、作品として決して間違ってはいなかった。
しかしそんなことはどうでもいい。
絵画だ。
世界中の誰もがそのフォーマットを知っている。
初心者であっても、長い歴史を追いかけなくても即座に洗練されたその空間に入れる。
これはつくづく凄いことだ。
保守的云々という意見があるのも分かるが、芸術フォーマットの在り方としてみるととてつもない強度がある。
いきなり誰もが納得する芸術空間を作れる人間はいない。
(そんなものはありえないだろうけど)
理想的なインスタレーションには、現実空間の意味の構造まですくい上げる抽象性があるべきだろう。
ただその画廊や日常空間に視覚的に聴覚的にマッチしているだけのものでない。
現実の場所や日常品を使うなら、そこに付随しているすべての意味が含まれて破綻しないようでなければいけない。
使用した日常品が持つ、或る特定の要素だけは見ないでおいてください、という言い訳は通用しない。
私たちが共有している意味を介して、現実と抽象ががっぷり四つに組み合ったコンストラクションが無ければいけない。
インスタレーションの空間性というものから見直す。
もちろん絵画と比べたら要素が多い。
その分、ルールもないように思えるが、残念ながらそれは芸術フォーマットであって、単なるディスプレイではない。
抽象性が問われるのだ。
インスタレーションは難しい。