90年代のマイナーな実験音響シーン

大した頭も無いのに立派な文章にしようと思っていたのか、なかなか書く気が失せていたが、このままでも何なので芸術関係で思いついたことを吐き出していこう。Twitterじゃ物足りない。
そんでもって後で修正すりゃいいか、ってな訳で…


 私がグループのような活動始めた90年代中盤、後半には確実に欧米に実験系の動きがあった。

独のSelektion蘭のV2米のRRRあたりの作家が
リミックスとは異なる発想/マナーで、他の作家の音源を再構築して
別の形に変え続ける作業。
作者不詳の、まるで通路のような音盤。
誰のものとはいえないノイズ。

この思想的ボスはSelektion、SBOTHIのアヒム・ヴォルシャイトだろう。
芸術の中心集合的権威を解体するようなことをせっせとやっていた。
(訳知りの方は彼をフランクフルト学派の紋切り型思考だと批判していたが)
そこにP16.D4、THU20、Kapotte Muziek、Merzbow、 The Hatersあたりが絡んで、新プロジェクトが立ち上がり、妙なカセットや音盤が出ていた。

Kapotteあたりはリサイクル音楽とか言ってアヒムの思考よりはジャンク音楽な発想が強かった。
先日立ち読みしたユリイカ佐々木敦さんが書いてたけど、マーカス・シュミックラーが音源を一切モニターせずCDを作った云々なんて、このあたりの連中は朝飯前で難なくやっていた。
Kapotteが仏と米のマイナーなレーベルから出した同じタイトルのカセット2本は同時に再生する作品だったりした。
当然カセットを入手するのに聴き手は苦労する。
私も仏のカセットは知らないレーベルだったので手に入るまで時間がかかった。今は手放したけど、ちゃんと2台で再生しましたよ。
全然大した効果のない音楽だったけど、大事なことは別。

そういう物理的なネットワークを介して作品を作品主体にしないというような動きがミソだったのです。
Small Cruel Partyとルドルフeb.erなんかSplitアルバムだといって、わざわざ作ったLPを真っ二つに切って売っていた。

The Hatersのナンセンスや目的無き暴力作品もそこに別の意味が見えていた。

我々はネッズやパリペキン、クララやロスアプでそういうのを横目で見ては「ほほぅ、よしよし」と思っていたが、いつのまにかそういう動きは消えていた。

2001年くらいでそんな動きは見えなくなった。

最近はどうでしょう。
一部に面白いものはある!
でも大概は保守的ですよね。
細分化されたジャンルに収まった「耳当たりの良い」実験に、何か残るものがあるだろうか。
上記の興味深い動きすら記録としてきちんと残っていない…
需要の問題もある。
ややこしさに、まったく興味を持たない、持てないリスナーが多くなってるのかも?