ストローブ=ユイレとタルコフスキー

象徴やメタファーによって表現する手法は、その背景を知らないと通用しない。
たとえば聖書の一節を映画に挿入された場合など、日本人には分かりにくいところである。
私は以前、タルコフスキーに心酔していた。
しかしストローブ=ユイレを知ってからはその思い入れが急激に冷めてしまった。
彼らは象徴を使って描くのではなく、古典をこの現代にそのまま舞台化してしまうのだ。
通常のスペクタクルを期待する向きには究極の退屈な映画だろう。
カメラは動かない、俳優は動かない、セリフは棒読み、BGMはない。世界一の我慢大会映画に見えるだろう。
これは半分当たっている。
モチーフや場所の選定は完璧に計算されている。
彼らは素人を俳優にすることが多い。しかし僅かな部分でも意にそぐわなければ何度でも撮り直す。
しかし一見凡庸な風景はその儀式のような舞台進行によって詩になっていくようだ。
光や風が雄弁にそのままの当たり前の風景に色づけをする。
何の変哲もない風景がまさに古代神話の舞台のように見えてくる。長回しにしていれば当たり前に起こる変化が思わぬ演出に見えてくる。
何か演出があるわけではない。木漏れ日の公園や新緑の山々が絵となって圧倒的な存在感を表す。
当たり前のことがそのまま変質していくようだ。何の変化もない変質。ただ長回しでは絶対そうはならない。
タルコフスキーのような演出は一切ない。そのままで十分なのだ。とんでもない造形力である。
大抵彼らが選ぶモチーフは、後の時代に他の作家の必然によって継承されたものであることが多い。
エンペドクレスの伝記はヘルダーリンの戯曲であり、ソポクレスのアンティゴネブレヒトの戯曲である。
彼らの映画を見ると、その計算が理解されようがされましがお構いなしに実現してしまっている、ということが伝わってくる。
現代の映像かと問えばYESでありNOである。
「歴史の時間」ではスーツの若者がローマの長老と語り合う。ベンチに座っているスーツの若者に一枚、木の葉が落ちてくる。背景にはローマ市内の自動車の音が堂々と入っている。
アンティゴネ」では長回しの横顔の遠くの雲がうねりだす。
現代も過去もない時間が彼らの映画芸術の産物である。
こんなことができるのは、自身がヨーロッパ人であり、その層の中で生きているからであろう。
この舞台の表れ方に興味は尽きない。
セザンヌ」で一枚の絵をずっと映しているいるシーンがあるが、スチルで済みそうな静止画のような画面でもフィルムを使って時間を刻んでいるところにもそれは表れている。
そうは言ってもタルコフスキー
懐かしさもかねて久々に「ストーカー」を観た。浪人時代に劇場で20回は観た映画である。
当時は何と言っても映像美に惹かれた。その表面的な美しさだけでなく、感覚を通じて物語の構図を暗示する方法に驚かされた。
飽きるほど見たのでストーリーは自分なりに妥当な解釈ができている。
そのせいか、映像美に気を取られずに観ることができた。
これが予想以上に面白かった。
あの映画は登場人物の視線が演技として重要なのだ。作家と教授の虚ろな目とストーカーの純粋な目の対比。
そしてあのシーン、ゾーンから帰った後、ストーカーを寝かしつけた彼の奥さんが煙草を手に取りながら、こちらに向かって話しかけてくるところ。
唐突で変なシーンだ。それまで奥行を観ていたのに、急にその奥行が観ている私たちのほうに向かって飛び出してきたかのようだ。
しかしあれが肝心。ストーカーの妻であることの苦難を語るならモノローグでもいい筈だが、映画の向こうからぐっとこっちを見つめられ、語られることでいやがうえにも視線を意識させられる。
そして最後の超能力の娘の視線でのコップの移動。次世代に託された黙示録。ゾーンの贈り物、謎か奇跡か。ストーカー自身もまだ気づいていない。
サクリファイス」の枯れ木と同じだ。信じることの奇跡。
よく考えると視線ほど映画での表現に適しているものはない。
表情の変化の動的描写、まばたき、涙など。視線が語るものは無限に近い。