二冊の本

最近読んだ二冊の本。どちらも美術の本だ。
一冊は「藤牧義夫 真偽」大谷芳久
もう一冊は某雑誌 特集「セザンヌにはどう視えているか」
前者に関しては、近いうちに感想を書いてみたい。凄い本である。
昭和初期に活躍し、忽然と姿を消してしまった天才版画家。
埋もれていたその作家を七〇年代後半に自身の画廊で発掘したのが大谷氏だ。

この本は改竄や本人の意図にそぐわぬ刷りをされた作品を展示してしまったことへの後悔に端を発する、近年一〇年間に渡る調査による真偽の報告である。
面白いのは、さながら推理小説の様相を呈していて、寝不足上等とばかりに私は一気に読んでしまった。
藤牧は極貧で気弱な人間で、版画をあきらめ隅田川に身を投じた、という紹介をされてきたが、実際はそうではなかったのだ。
大谷氏は彼の足跡を追いかけ、それまでの根の葉もない虚構を暴いていきながら、画商としての審美眼を持って真偽を判断する。
疑わしき版画界の権威であり版画家でもあるO氏。彼がずっと藤牧を紹介してきた人物だ。
改竄は誰の手によって行われてきたのか。O氏は藤牧から版木や版画を預かってくれと手渡されたという。
O氏は或る版画技法の本で、自作ではなく、藤牧の版木から金属製の版画の型を作っているところを写真入りで公開しいる。
信じられない暴挙だ。怪しい…しかし既にO氏は他界しており、すべては闇の中…。
大谷氏は出来得る最大限の努力で調査し、藤牧の芸術を信じ、かけられた嫌疑に勇敢に弁護していく。
藤牧を知る者や親類から話を聞き、かつて掲載された図版を探し、作品を直接手にし、図版から詳細にトレースして重ね合わせ、実際に描かれた場所に作品図版と比べ、その視線を吟味した。
一〇年の歳月、大谷氏は作家と向き合った。原画の裏をはぐったり、インクの滲みを見たりしているうちにどこかで藤牧の声が聞こえたのだろうと思う。


問題は後者の雑誌。
これはどうだろうか、私には良くないと思える。
セザンヌはいつから哲学愛好家たちの玩具になったのだろうか。
メルロ・ポンティのせいだろうか。
ほとんどの執筆者はセザンヌをダシに自説を繰り広げたり、好きな作家と並べて評したりしているようにしか読めなかった。
特集のタイトルに合った論考は一つとして無かった。
何よりも私には、絵を見詰めるときの、愛でるような視線を文章から全く感じることができなかった。料理を味わうことなく料理のレシピを書いているような印象だ。
セザンヌに興味があるのか分からないミュージシャンのインタビューなど、紙面を埋めるだけのものにしか思えない。
筆致を分析した方もいてその結論は正しいと思うが、まずはガセケの「セザンヌ」から始めるべきではないか。
以前、ポストモダン時代に一時、脚光を浴びた論者が「ガセケの言説は創作だ。セザンヌと共にいた頃に書いてない」というような旨の文章をどこかで書いていたが、
仮にそれが正しいとしても、その時代の思考の一般性を想像してほしい。
作家は時代と無関係に独自にものを考えている訳ではない。
ストローブ=ユイレの「セザンヌ」にまったく触れていないのも驚いた。
終わりのほうで、タッタ一人だけ、持田睦という方がそれについて書いていた。翻訳の詳細に当ったその論考は秀逸だ。彼はあの有名な雑誌の看板を独りでしっかり支えていた。
しかし「大気の論理」の話はなかったが…

この雑誌を読むと、セザンヌを身体論と結び付けて語る、という暗黙の了解がどこかにある様だ。
ストロークがいい例だが、マチエールを記号として見なすとき、そこには充分な注意が必要ではないだろうか。
写真で見ればそれがどんな具合か、或る程度までは誰でも分かるだろう。しかしそれが実際どんな輝きを持って見えてくるかは体験してみないと分からない。
短時間で絵を見て判断はできない。頭に既に結論まで見えてる論考を浮かべていたら予想通りのものが見えてくるだろう。
絵の表面は画家との間の膜であり接点である。
この接点を前にして感性が劣化していたら接触不良が起こってしまう。

大谷氏の藤牧真偽とは全く異なる机上の空論のような特集。
前者は定価21,000円。後者は1,300円。後者のほうが私には高い本だった。
専門書籍と雑誌を比べるなんて、と思う方もいよう。しかし大谷氏の藤牧論考は小冊子「一寸」というに発表していたものだった。