Manabu Suzuki recorded by Toshiya Tsunoda


最近のSkitiからのリリース作品について書いておこう。

この作品は鈴木学氏のインスタレーションを録音した作品だ。
図のように超音波域の40khzを再生する装置がいくつかぶら下がっている。個々の周波数は僅かにずれているので、各々干渉しその差による低い周波数がうなりになって聴こえる、という仕組みである。
吊り下げられた後、鈴木自身によって各々の装置は揺らされ安定していく。干渉によって聴こえる電子音は徐々にその周波数域が狭まっていく。
その状態を聴かせるインスタレーションである。
私はこの作品を体験しながら、聴いている自分自身の状態というものが気になりだした。
もう少し詳しく言うと、自分の中に作品を受け止める場所のようなものがあり、それが受け止める対象によって変化するのではないか、ということである。それは心のキャンヴァスのようなもので(爆)そのキャンヴァスの形や肌理はそこに描かれるものによって変わるのではないか。
ロックやジャズのような音楽と、こういう作品を同じ耳と身体で聴いても、受け止められ方が異なる。何でも同じ胃袋に入るのではない、と考えたのだ。匂いを嗅ぐ体験も、手触りを楽しむ体験も同じ感覚体験として一緒くたにされることはない。
 このインスタレーションの最初、つまり空間での揺れ始めは聴こえる周波数域が広く、視覚的にも揺れが音に変換されていることが一目瞭然だが、安定して、視覚的に動きが乏しくなっているにもかかわらず、電子音は意外にも変化し続ける。
しばらくすると音も安定してくる。するとこちらの時間というより運動を意識する感覚が少し曖昧になってくるように感じられる。分からないくらいの速度でゆっくりとBPMが落ちていくような感じである。
 私たちは動きのあるものでも一定の状態と呼ぶことができる。
風鈴がずっと同じように風に揺れ、鈴の音の間隔が1一定に繰り返されていれば安定した状態と呼ぶことができる。
或る状態を提示する作品は、そこに表れる変化と同時にそれを受け止める側の状態を知ることになる。これは状態の変化というものをどこで区切るのか、という問題でもある。(魚の呼び名が成長と共に変わるように)
作品は受容する者がいて成り立つのだとして、鈴木の作品を回る車輪だとすると、私が聴いている状態も具合は違えど同じように回る車輪ということになる。もう片方の車輪の状態が私がそれに対面している状態のことだ。それが作品を鑑賞している状態だ。そう考えることができるだろう。
そこで私はいつも使っている超小型マイクの片方を自分の耳の中に入れることを思いついた。
耳の中では体内の音が録音される。
これと鈴木の電子音対比させると、体験をテーマにした作品への、ひとつの正しい対応の仕方となるのではないか、と思ったのである。
そのことを少し強調するために、ほぼ安定したな(これ以上変化しないな)と私が判断した時点でマイクを入れた耳を閉じることにした。

 この作品は昨今よく聞くところの「聴取」の問題だけを扱っているのではない。
むしろその問題への別の回答である。
作品はどこにどんな風に表れるのか、ということがここでのポイントだ。
その場所は、鼓膜でも、脳内でも、実際の空間でもなく、先の喩えの車輪と車輪を貫いているコンセプチュアルなシャフトのようなところに在るのではないか、ということを言いたいのである。
作品を物質に解体したら無くなってしまう。
イデアだけでは作品は存在はしたとはいえない。
作品とは一体どういう存在でどのように在るものなのか。
 それは想像力で補完されて成り立つ特殊な出来事ではないのか、ということだ。