パレルモの国旗



ブリンキー・パレルモはコンセプチュアルな作家というよりは遥かにペインタリーな仕事をした。一見するとミニマル絵画に見えるかもしれない。しかしミニマルの動向にありがちな工業的な手段や機械的なパターンの規則性それ自身を主張させるような使い方は一切しない。
パレルモの作品について書き出すと長くなるので、あのドイツの国旗の色を使った作品について書いてみよう。

あの作品はクネーベル等と共に米国での展覧会に向けて作られた。現在NYのDia:Beaconに所蔵されている。
私は最初、国旗の色彩、赤、黄、黒を使った連作には面白みを感じなかった。
パレルモの使う形と色彩の詩的なバランスの妙からしたら、何か明白すぎるような、理屈っぽいところで作ったものに思えたからだ。

しかし時間がたつにつれて、あの国旗の作品が気になりだした。他の作品より強く見えるのだ。そこからあることに気づいた。
あの色彩はドイツ国旗であり何の意味も持たない3色には見えない。かといってドイツの旗が美しく見直されたりすることもない。
国旗の色はそのまま意味を持った記号のようなもので、絵画に使用される恣意的な色彩とは異なる。無垢な色の連なりではない。つまり絵の色ではないのだ。したがってあの3色しか使わなかったとしたら特定された意味を消し去ることはできない。1色かけたらドイツの国旗ではない。3色並ばなければ色彩として自立する必然性を欠く。パレルモはその3色を自分の区画に引き入れたが、彼にはその意味を自在に扱うことはできない。モチーフとしてはかなり手ごわい。強烈すぎる。看板に赤白緑を使えばスパゲッティ屋は強制的にイタリアを表現できるのだ!
しかしここでパレルモの造形力を見て欲しい。↑に挙げた4枚の連作のパーツである1枚の中には2色しか塗られていない。ひとつだけ取り出したら国旗としての意味を成さない。実に憎いではないか。
国旗という意味をそのまま残すことでギリギリの造形を試みているようだ。
パレルモの作品は、ぽん、とそこに一点置いたとして、すぐ隣に何か置くことはできないような、空間に作用する作品を作ってきた。パレルモはこの作品でコンセプチュアルな場に造形空間を広げたように思う。

杉本拓が試みている音の持つ具体的な意味についての考察と同じ方向性だろう。自身がblogでこう書いている「音を抽象的な記号として扱うこと、音がどのような意味をもってしまうかを見届けること、それらをエレガントに実行すること」
氏の作品「3 speakers」然り。哲学書や語学テキスト、そして漫画「化け猫あんずちゃん」からの一節を3人の人物が作曲された時間枠で文章の断片を読み上げる作品である。この作曲構造に意味を伴うものを導入すること。テキストを読み上げる作品は古今東西無数に存在する。しかしこのことだけに特化した作品は他にあるだろうか。そしてそれをどう受け止めたらよいのか。
これは私が思うところの実験音楽である。
そして実験音楽マニアにすら消費されない手ごわさがある。「あんずちゃん」を紛れ込ませるあたりは、ある意味で強烈である。