荒川修作

荒川修作は昔から好きな作家の一人で、90年代初めまでは興味を持ち続けていた。
一時期表参道にあった東高現代美術館での荒川作品は良かった。
壁面に掲げられた大きなパネル画の前には斜めに傾いたパネルがあり、それに乗って壁のパネルを観る作品があった。
足元のパネルは角度は恐らく5度くらいで、そんなについていないが、観る者にはその角度が意識される。
足元のパネルは窓のように仕切られた額縁のようで、その窓ごとに画像が配されている。何の画像だったか忘れたが、ドル紙幣の拡大図がったのは覚えている。他にあったものもそんな感じで、一般的な図像のようなものだった。
作者の解説には、足元の踏み絵のような画像のどこに立つかによって、正面のパネルの見る意味が変わる、とあり、その区画はのどこに立つかの判断は観る側の倫理に関わる、というようなことが書かれていた。
はっきりした文言が手元にないので曖昧だが、ヒューマニズムと結び付けずに「倫理」という言葉を持ってくることが新鮮だった。
それ以降私はこの荒川の使った「倫理」という言葉を、自分が理解した近い意味に使っている。

それからさほど年月が経たぬ内に、近代美術館で荒川修作・マドリン・ギンズの大きな回顧展があった。
そこにあった新作。これには失望した。
派手にペイントされた遊園地のような、錯覚美術館みたいなインスタレーション養老天命反転地につながる作品群だ。これは無いだろう。エレガントさゼロだ。円柱の中の竜安寺石庭なんて、まるで葬儀屋のイミテーションの岩山のようじゃないか。
こういうことをしたかったのは分かるが、まんまやったらオシマイだ、と思ったのである。
彼らの力ならパネル画の前に石一個を置くだけで、これと同じ状況を観る者の頭の中に作れるはずだ。いたずらなアトラクティヴじゃないか。
今でもこの思いは変わっていない。

 先日の生ループで荒川のこの手の作品を批判したのだ。
そのとき今井さんは「図式絵画をやる前にオブジェを作っていたからそれと同じだ」というようなことで私の批判に答えた。
確かに棺桶に入った観念みたいなオブジェの写真を観た事があった。
このとき私は今井さんが活動をずっと続けてきたことで、肌で知っていることがあるだろう、ということが頭をよぎった。
多分、私よりずっと身近に荒川修作と関わってきたのだ。
私が荒川作品で観ている物とは違う何かを観ているのかもしれない。
いくら勉強したとしてもその時代の空気は吸えない。
喩えると、志水児王のレーザーの作品を観た生意気な若者が「志水さんはメディア・アートの人ですね」と言うのを私が聞くのと同じではないかと思った。
そんなのを聞いたらら、あのね、それは違うよ、と私は語りだしてしまうだろう。
私はずっとよく志水作品を観てきた。
今井さんからしたら、私などは「あんた何者?」となるだろう。
「美術家」と紹介され自分は一体本当に何者なのか、と思ってしまったのだった。