前衛的な音楽の初期衝動

 時々、電子音楽や現代音楽などの実験的な音楽を一番最初に聴いたときの衝撃がどんなものだったか思い出してみようとすることがある。
過去の出来事は思い出す度に都合よく変形されてしまうものだ。今回も或る理由があっての、思考の整理のためである。
しかし嘘はいけない。都合よく姿勢や態度を変える見栄っ張りな人間も知っている。それはやめたい。自戒。

一番最初にあまりのも変な音を聴いたのは、NHKFM「現代の音楽」だった。
75、6年のシンセ・ブームのさなか。ラジオ番組表には「電子音楽」と書いてあった。
こりゃシンセサイザーだな、録音しなきゃと眠い目をこすりながら番組を待つ。
番組の始まりを教える暗い音楽。「音楽のささげもの」ウェーベルンの編曲版。
続いて暗い声がする。
確かケルン電子音楽スタジオの音源特集だった。
曲名がアナウンスされる。ポーズボタン解除。

・・・・・
何だコリャ?
リズムもメロディーもない。耳くそをほじってるような音。
音がやんだと思ったら、ギルの笛のような超音波。
個々の音に関連が感じられない。
曲が長い。
何なんだ?
翌日友人と遊んだときにテレコを持ってって聞かせた。
何だろ、コレ?
まるで鉄棒の下を素通りするように小学生にはハードルが高かった。
悪戯にしか使えないじゃないか。
バスの前の席の爺さんの耳に向けて再生ボタンを押したが反応がなかった。
もしかしたらこれは音ですらないのか?


電子音楽に対して意識的に聴こうと思ったのは高校時代になってから。
何かそこに作曲の意図のようなものがあるはずだ。それが理解できるか、そして楽しめるか確かめてみたくなった。
ちょうどよく1500円でシュトックハウゼンの「コンタクテ」、ケージやベルクの入ったテープ音楽のレコードが売っていた。
「コンタクテ」ダイナミックな音楽で、ロックでも聴くようなブリブリしたシンセも入っていた。
解説にあった生音と電子音の出会いについてはなるほどと理解したものの、楽曲の進行はどの部分も出会いの瞬間しか存在しないような、展開に乏しいものに感じられた。
ケージの「フォンタナ・ミックス」はもっとぐしゃぐしゃで、アモン・デュールかクラスターのようで聴けないこともなかったが、何の指示によってここまでになるのかは分からなかった。
出鱈目だったらレコードにもならないだろうし、これはきっとエライ音楽なんだろうか。
キャブスのメンバーのインタビュー記事に「ケージの音楽はユーモラスだから好きだ」みたいなものを読んだが、そういう軽い楽しみ方で流すことはできないように思えた。
中古で買った白地に枯れ木のジャケットの「4ウォールズ」(だったか?)の数台のピアノの強烈なトーン・クラスターのA面をひっくり返すのはとても辛かった。


Kのクラスターの「クロップフツァイヒェン」も難しかったが、カッコいい印象もあった。
それはTGやキャブス、ホワイトハウスあたりをすでに聴いていたからだろう。
この元祖は一種のパンクのような気もしたが、楽曲は長く感じた。
2回くらい聴くうちに、アモン・デュールのファーストと同じく、晴天の休日の午前中にかけると開放的なな気分になったので愛聴していた。
しかしドイツ語の勉強でノイローゼになった人間を表現しているようでもあり笑いが出たりもした。




エヴァン・パーカーが横浜の大桟橋でライヴをするという話は友人から聞いたのだったと思う。
会場はホールなどではなく、商工会議所のような場所の大きな部屋だった。
ここでライヴかよ、と思った。海外から招いて、こんな会場でいいのか?
周りはサッシの大きなガラス窓の会議室。天井は低い。
こんなライヴってありなのか?PAもない。
髭面の難しそうな親父が眼の前で何も言わずおもむろにソプラノ・サックスを吹き始める。
ほんとだ、息継ぎしてねぇ。
急いで口で吸え、じゃなくて鼻で吸って口で吐くのか。こりゃ誰にもできないな。
演奏を見ているとやはり前衛音楽独特の同じような音がずっと続く展開だったが、退屈しなかったのは、身体性のようなものに出会えたからだったと思う。
場所は関係ない。
書を書いているような態度。
何か凄いな、音楽の思考だけではやっていないんだな、と、その時感じることができた。
当時フレッド・フリスのテーブル・ギターも日仏学院かどこかのステージで見たが、こっちのほうはロックのライヴとあまり差を感じなかった。
どうせならヘンリー・カウの曲でもやってくれればいいのに、と思ったくらいだ。
エヴァン・パーカーと比べて態度の差のようなものを感じてしまった気がした。
しかしこれはフリスがロックをやっていて、それからこういう世界に入ってきたということを知っていたからだろう。
何の予備知識もなくフリーな彼を見たら衝撃があったかもしれない。




天国注射の昼というイベントにも行った。
日比谷の野音にはその前の年のテクノポップの祭典があったので馴染みがあり、もう一度行くのもわくわくした。
ここでは、パンクありフリージャズあり、とってつけたような政治主張や演劇もありで、中にはテキトーな奴らも混じってるんじゃないか、と半信半疑にもなったが
こういう動向が地下に確実にあるという事実?のようなものを感じ取った。



一見似たような混沌とした音響にもそれぞれ種族の違いのようなものがあり、それぞれが違う問題を追求しているようで、そのことが知られるたびに、こいつらは一体何を意図しているのか、と興味を持つことになったのだと思う。


音だけで面白いね、となったのはロックのほうで、タンジェリン・ドリームの初期やロン・ギーシンのソロなど、聴けば何をしたいかすぐ分かったし、楽しめた。
これはそれまでプログレなどを聴いていたからだろう。慣れの問題だった。
クラフトワークのファースト、セカンドも前衛系に近いが、頭をかしげるような衝撃はなかった。

一体このゲイジュツカたちは何を意図してどういうつもりでやっているのか。
当時、絵画教室や絵の具屋で美術手帖を見たりしていたので、マンゾーニやイヴ・クラインのような訳の分からん作家がいたのも知っていた。
ヘルマン・ニッチェにも驚かされたが、こういうものが世の中にあり、それが真剣に行われていることは知っていた。
しかし音楽だと目で見るだけでなく、聴く時間が必要なのでかなり苦痛を伴うものだ。
尚更、意図が知りたくなった。
つまりコンセプトが知りたかったのだ。
そうじゃなければ、その奇妙な音響は頭にすら残らなかっただろう。

NHKFMでは小泉文夫の「世界の民族音楽」もかかさず聴いていた。
地域によって生まれる音楽の理由を知りたくてジャポニカ百科事典で国々の事情を読んだりした。
これも一種のコンセプトのようなものだ。
理由が知りたかった。


突然変異のようなレジデンツの音楽にも当時はハマったが、小泉文夫のおかげでそのルーツが見えた。
突然変異にも何かしら影響があるものだ。
ずっと後になってイマ・スマック「レジェンド・オブ・イヴァロ」を聴いて更に納得した。