夏歩き

 去年の晩夏に、昔からよく知った三浦半島をどこに行くでもなく、目的なしに歩いた。
それはまるで風景をシャッフルしたかのような意外な光景に出会う体験で、何ともいえない物凄いものがあった。そして何か、制作に関して重要なものが潜んでいるように思われた。
今年もその正体をつかむことを期待して歩いたのだが、これがまたまた忘れがたい大きな経験になった。

今年はCCDカメラを持って自然光の撮影をしようと思い光と色彩を強く意識したせいか、まるでそれは神秘体験のような世界だったのだ。
うまくここに書けるか不安だが、整理のためにも一度やってみよう。

適当な駅やバス停で降りる。
服はサンダルに半ズボン、薄いシャツ1枚の軽装。
長丁場になるのでmp3プレイヤーも携帯。中身は初期のイ・プーとJ・J・ケール。真夏にはコレしかない。入道雲にアモーレの嵐、それに続くJJの曲は日陰で涼を取るようなものだ。小さな音の再生が肝心。
肌の露出する部分には入念に蚊よけスプレー。汗とまみれてどろどろだがこうしないと刺されて痒くてたまらない。日が強いのでサングラスも必須。

こう書くと、何だピクニックか、と思われそうだがそうではない。
あてどなく歩くのである。
どこに行くのかは分からない。
当然ながら半端ではなく暑い。
なるべく緑のあるところに行く。
夏の自然は強烈だ。

まるで木々の一本一本が大声で、あ〜〜あ〜〜と叫んでいるかのようだ。
ジリジリする暑さ、容赦ない蝉時雨、日差しの強さがそう感じさせるのかもしれないが、とにかく木々は叫んでいる。あるいは大きすぎる絶叫が逆に真空状態のような沈黙に感じられるかのようだ。
秋や冬には決して感じられない。
あちらこちらへと蔓草は伸び繁る。アンテナや電柱へとからまり、緑の王国のようである。嫌というほど夏過ぎる景色。
田舎に行くとそれは都会とは雲泥の差で物凄い。

逆光に入ると緑はステンドグラスのように光を通し、強い直接光と混ざって強烈だ。
CCDカメラで接写を試みるとそのスペクトルの幅が広い。
猛暑でバタバタと老人が亡くなったこの夏の真昼に畑の脇道や谷戸の坂を降りる者はいない。ひとりで歩いていける。
ずっと緑の光の中を歩いていると、植物が植物でなくなっているような、別の生き物のような感覚にすらなる。凶暴な印象だ。
強烈だったのは、あまり行ったことがなかった津久井浜でのことだ。
駅から山のほうに続く小川は大昔と同じ位置にあるがコンクリートで舗装され遊歩道のようになっていた。流れている水はよくある状態よりほんの少しきれいだったように思う。
そのまま行くとただひたすら山があったところは、整備され菜園になっていた。
みかん畑のようである。それでも三浦富士はどーんとしたマッスで現れた。
まじまじと見ると、個々の木々の集まりというより、圧倒的な全体が感じられる。要素に分解できない大きな塊。これは一体何か。山なのだろうか。雲が動く。景色が変わる。自分と山しかないような印象。
そしてやはり絶叫していた。
枯れた木が何かのポーズを作っている。
何だろうか。気になるがそのまま歩いて山のほうへ。
高い松のような木が、上空の空気を少し予感させる。

みかん畑の山に入る。意外と深い。軽い上り坂だ。
農民がわずかにいたが、馬鹿暑いさなか、誰も山の中にはいない。夏ならではのこんもりとした木立がトンネルのようになっていた。
湿気を帯びた真っ黒な木立の影。中では木漏れ日で葉や蔓の細部が輝く。
こりゃ大変だ…一生かかるよ、と頭の中でつぶやいた。
このトンネルにこだわったら、一生かかってしまうのではないか、訳もなくそう思ってしまった。何のことだかよく分からない。当惑の連続。
そしてその原因が分からないのだ。ただ圧倒され、唖然とするだけ。
まるで神秘体験である。
まさか津久井浜で神秘体験(?)をするとは思わなかった!
植物の色彩は不思議だ。
こう思ってからは、仕事帰りに建物の蛍光灯でうっすら明るくなっているススキの色でさえ、蛍光塗料でも混ざっているのではないかと思ってしまう。
ギリシア古代、欧州中世哲学に光の位階の話があるが、まさにそんな感じである。
畑の土の色も大変である。赤い。そしてカラカラに乾いている。
その乾きが色彩なのだ。
延々と日は照り続ける。驚きは終わらない。
どうして植物や虫などは生き生きと盛り上がっているのだろうか。
それは人の生活と比較して出た感慨ではなく、ただ単にそのことだけが頭に入ってくるのである。

景色とは何か、あるいは全体と部分のつながり、なんて考えではない、何か超越したかのような全体の見え方。
これは一体なんだろうか。単純という意味ではないし塊でもない。
世界という言葉も嘘くさく結びつかない、Whole、全体。
何かアクションを続ければ掴めそうな感じもする。時間がかかりそうだ。
そしてそれはとても良いことに違いない!

気になる景色がワンシーンのように目の前に現れる。
対峙。
こちらも、気をつけで対応するしか術がない。
そうしていると、うまく言えないが「価値」というような言葉が浮かぶ。
これもまた人や集団に向かっての意味でなく、自分がただ単に肯定されるようなもの。しかも否定との対比で感じられる肯定とは違う。
比較がない。
ただ自分や景色がそこに在るということに気づくような…
これは何だろうか。
私の「こめかみ録音」はこれに関わっているような気がする。

ようやく夕方になってくる。
農家の方々が野焼きをしている。蒼い煙が深緑にかぶる。
焦げ臭いにおい、少しオレンジ色になって輝く入道雲
遠くで厚着をした農民が米粒のように見える。大きな谷戸

絶叫していた木々のトーンが落ちてくる。
景色の青が多くなっていく。
少しだが涼しくなる。
広い畑に出る。
景色が青の多いゆるい虹色になっている。
よっこいしょと景色が座りなおす。
家に気持ちが少し向かう。
そろそろ帰る時間かな?でも、まぁ、まだ大丈夫でしょう、もうちょっとくらい、と誰かに言われているような気分。

木々や植物はやれやれ、やっと一息、というような風情だ。
近くのバス停や駅に向かう。
三浦半島は小さいのででたらめに歩いてもすぐ道路に出る。
空が青と赤になって、温度が下がっていく様子。
バスは大抵、海のほうを走る。
とてつもない充実感。
6時間半は歩いただろうか。まったく疲れない。
都会だったら2時間でへとへとだが・・・

この歳になって大きな影響を与える出来事というのはそうないが、この夏歩きは自分にとって久々の手ごたえなのだ。
今までの録音でやってきたことの次に続く問題が見えているような気がするが、これは芸術とは方向が違う気もする。
態度というか、人を相手としない、倫理のようなものを感じてしまうのだ。
(自然保護とかそんなことではないよ)