憂うべきこと

昔、訳の分からない作品を眼の前にすると、いつも自分はいつになったらこういうものが理解できるのだろうか、それともそんな才能が無いのではないかと思い憂鬱といらつきを感じたものだ。
そういう作品は何だか分からないが説得力があるもとで作られたようで、たたずまいは深遠、解説などを読むとこれまた難解な文章で覆われている。
複雑な見栄えならば、まだ良い。楽しむための取っ掛かりがある。
一番厄介なのは簡素な作品だ。
ただ一筆だけ置かれたような絵画や不協和音と空白に満ちた音楽など。
そういう作品は恐らく苦行を乗り越え、削りに削ったうえの形なのだろう。ジャコメッティがそうしたように。
それにしても一体何が言いたいのか。
作品であるなら誰かの理解が得られなければ無駄な行為だ。しかし、果たして、このとことん悟ったような作品の理解者は一体存在するのだろうか。
取り付く島のない絶壁を見る思いの後に、自分の中に起こってくる感覚は、けっ、こんなのツマンネェや、自分の気を引いて止まないこっちのほうが絶対いいに決まってる。ガツンとくるよね。ここ掘れワンワンだ、間違いない。相手にしてくれないようなら、こっちからさよならだ。
その後、色々学んで実践して10年くらいたって突然あれっと分かる瞬間が来る。
そこから興味が大きく傾いていく、チャンネルが変わったように苦痛のようだった作品にピントがあうようになる。
するとそれ以前熱中していた作品が少し劣って見えたりもするが、それも一時、それとの関係も見えてくる。個人の感性には共通性があるからだろう。

無印良品ではないが、簡素なたたずまいには今風のファッション性がある。
実際、そういうメーカーの広告にはミニマル絵画やコンセプチュアル・アートのデザイン性が利用されている。アニエス・ベーがずいぶん前にそういうDMを配っていたこともあった。
そんな一見簡素なルックスはファッションとして一般化した。
雑誌「ク●ネル」「チ●チンびと」などの、私が冗談で呼ぶところの「ニュー貧相系」にはこの手のものを実に上手く使っている。
実際、葉山や鎌倉のはずれあたりで、どっかで拾ってきたような小物をあり難そうにちょんちょんと飾ってある店がある。
一見、現代美術風。
こういうものに慣れてくるのか簡素な作品、何もないがらんどうな展示会場で、私がかつて感じたジリジリしたような戸惑い、削りきった究極の造形を感じることが無くなっているのかもしれない。
最初からそんなジリジリは必要無いのかもしれないが、何もない空白や何でもない物体がぽんと眼の前にあることに戸惑いがなくなっているとしたら、私個人の体験にとって大切だった戸惑いが感じにくくなっているご時勢だといえるかもしれない。
現在私が20代かそこらの若者だったら、どんなふうに見えるのだろうか。
ただ何となくのさっぱりした空白。
それはレイアウトなのか。
あくびのような作品。
かつて、ここ掘れワンワンだったことがあるのか?それともただ単に三年寝太郎か?わらしべ長者だって歩くから転ぶ。
この憂いは疑心暗鬼か、それとも勘違い?あるいは私の単なる思い上がりだろうか。
いずれにしろ時間が答えを出す。