Manfred Werder

Manfred Werder(以下MW)はEdition Wandelweiserに属すチューリッヒ在住のコンポーザーである。ピアノ奏者としてクセナキスあたりの現代音楽の演奏もするらしい。私のレーベルSkitiの第一弾CDの作家である。以下勢いでMWについて書いてみよう。MWと初めて会ったのは宇波拓、杉本拓両氏に誘われてワタリウムで行われているスイスの美術展での演奏だった。そのときは挨拶程度だったが、直接関わることになったのは多摩川の川縁で行われた「天狗と狐の野外音楽祭」の際の20061というスコアだ。
a place, natural light, where the performer, the performers like to be a time (sound)
おおよそ楽譜らしくないスコアのキワモノ感に、私も面白半分に演じてみることにした。こういう訳の分からないものを体験しないと川縁コンサートの意味がない。一緒に演じたのは大蔵雅彦、秋山徹次の三人。ジャケット写真にあるように最後は三人とも示し合わせることもなく川を眺めていた。家に帰って録音を聴くとこれがまた面白い。何か内的変化があるはずだかそれが分からないような、無いものがあるようなそんな録音だった。ただこの作品は大雑把に見るとケージの「4’33”」の演奏会場の音を聴くという部分に近いところがある。彼自身はライナーでこう書いている。「4’33”という作品は歴史的な存在ですが、その作品体験は恐らくそうではない、と私は言いたいのです。私の作品、2006 1で、私はその文脈を変更させています。それは、新しい音を探すことではなく、鳴っている世界−私たちが実際に現象として、この世界の一部である−との関係を表すことなのです。この『鳴っている世界』との新しい関係を前進させるものは何なのでしょうか?私の作品では、私たちがそうである事実が、既に全てであるかもしれない、という普遍的な状況を私は描写しようとしているのです。」(出典:Manfred Werder 2006 1 Skiti SK01CDライナーより 訳:米村篤)ここにMWの活動の一貫したコンセプトが書かれている。2006 1の前には20051という作品がある。これが原型であろう。
place    time     (sound)
この3単語のみ。これの屋外版が2006 1という訳だ。MWは時々スコアを送ってくれる。2008 2はこうだ。
birches a butterfly swifts bats a fox
続く20083は
a hill a valley a mountain range a lowland a plateau a river delta a fjord
これはスコアによる空間への意識の拡張である。前者は或る空間に棲息する生き物の名前。後者は地形である。ここまでいくと最早楽譜とは言い難い。何故こうなるのか。こそれは先に挙げた2006 1のライナーにある。「鳴っている世界−私たちが実際に現象として、この世界の一部である−との関係を表すこと」そして「私たちがそうである事実が、既に全てであるかもしれない、という普遍的な状況」へのコンセプチュアルな言及である。これらの生き物や空間/場所を意味する単語から、私たちはその意味する対象へと意識が向かう。その方向を示すこと。概念的な矢印である。MWは具体的なイメージを与えようとはしない。より具体的な描写をすれば感覚に鮮やかな詩のようなものになるだろう。しかしそれだと主観性に訴えかけることになってしまい、意識の向かう方向への言及が全く見えなくなってしまう。矢印の先と同時に矢印そのものを見ることがここでは大事なのだ。それがギリギリでスコアというメディアを成り立たせている。主観的なイメージを否定している訳ではないだろう。ただ特定のイメージを押し付けることを避けているのだ。これがサービス不足、敷居が高いと反感を得るところかもしれない(そうはいっても実験度の敷居は低くはない) 別の見方からもう少しMWのやっていることを書いておこう。芸術作品の基盤とは何だろうか。絵だったらキャンヴァスの白やそのサイズ、制作が始る最初の地点。この一番のベースになる部分を見つみる。演奏会場がある。ステージは演奏の場所だ。ステージにライトが点いて演奏家がいなくともその状況は演奏を表現していると考えられる。閉館後もそのステージはそこにある。観客はいなくてもステージという物体そのものが演奏を前提にしたものである限り、MW流に言えばそれは「鳴ってる世界」なのだ。そのことが「私たちが実際に現象として、この世界の一部である」ということだ。このように基盤を掘り下げて拡大解釈したものが彼のスコアであろう。MWには通常の演奏用のスコアもある。それは所属するEdition Wandelweiserらしい単音が長い空白の間に響く作品だ。五線譜ではなく点と数字が規則的に並んでいる。物凄い紙の束である。演奏時間は400時間などといった途方もない設定。これをMWは機会あるごとに少しずつ実演している。キッドアイラックで行われたWandelweiserの演奏会などで披露された。この場合、スコアは一種のイデアのようなものかもしれない。演奏が現実に受肉していくような仕組みになっている。最近新しいタイプのスコアが送られてきた。それは哲学書の一節が書かれている。20101を見てみよう。
that immediate transparency that constitutes the elements of their possibility
これはフーコーの著書の一節だ。これがスコアである。彼はこれを英国の音楽祭で実演した。小さい街の静かな公園での実演。どんなことをしたのか訊ねると、いや、特に何もしていない、ただ日中ベンチに座っていただけだ。その場所と時間をフレームとして、そこに来た者が静かに考えるようにしてほしい。自分が家でやっていることと同じだ、という返答だった。この実演の様子は何とYouTubeにアップされている。Manfred Werder 2010 1で検索してみよう。公園でぽつんと一人、時に二人で座っている短い映像が見ることができる。今度は場所や時間への拡張ではなく、意識することそのものへと向かっている。つまりテクストは「鳴っている世界との新しい関係を前進させるもの」ということだ。場所と時間に言及した20051はこの場合、作品の契機に転じたようだ。2005 1、 2006 1、そして20082、20083から2010 1、へと非常に分かりやすく展開している。MWのCDも面白い。詳しく解説するのは控えるがStefan Thutと共に出したCDではフィヨルドでのフィールド録音である。前述の20083の実演である。スコアは演奏可能である。といっても、二人とも何もしていないため音は全く同じである。(ちなみにStefan Thutは「im sefinental」という別の作品。これは二人名義の作品なのでそれらの対比について話すことのほうが意義あることかもしれない) MWの曲にはわずかな所作がある。終了数分前に一回、石を投げる音が入っている。ゴツっと、湿気を帯びた鈍く硬い音がする。「蛙飛び込む」式に、この音のほんのわずかな反響でフィヨルドがホワイトノイズから浮き上がる仕組みになっている。
(これはあくまでも自説でありMWに確認をとってはいない。大きな見落としがあるかもしれない)