レビュー・宇波拓ライヴ@試聴室/黄金町

anatema2009-09-13

試聴室<その2>1st Anniversary 黄金町 Music & Arts Fes. Vol.1 第6夜 宇波拓 2009年9月11日(金)
書けば野暮かと思うが、敢えて書いてみよう。

 この日は宇波のソロである。
第一部は最近の杉本拓との「天狗と狐」あたりから始まった影による演奏。演奏と言っても音を扱うものではない。だからといって演劇的な要素は無い。主に使用される素材はクリップライトとダンボール箱、巻尺などである。これは即興演奏を追求してきた彼のひとつの結果なのである。暗いステージ上でダンボール箱をごそごそと組み立てている姿はパフォーマンスのクオリティを重視する向きからすればトンデモナイものに見えるだろう。一見どうでもいい素材のようでいて吟味されている。ダンボール箱の折返し部分にできる隙間にクリップライトを当て、壁に細いギャップを映す。そこに巻尺の金属目盛りを伸ばし、細い影の線を表す。ライトをダンボール箱の折込による蓋にあたる部分につけ、手でその蓋を開閉させ光の航跡を作る。ダンボール箱は畳まれたときには平板だが、組み立てれば箱になる。投射によって意外な形が壁に描かれる。軽いダンボールは時に重さに耐えられずに倒れ、壁の景色は変わる。巻尺の目盛りは伸ばす長さや力具合で折れることもあればそうでないときもある。これらの素材は華奢で充分なコントロールはできない。そこで起こってしまう状況を紡いでいくこと。これは即興演奏を別の角度から見る作業ではないだろうか。この即興演奏はジャズをベースに生まれたアドリブとは別の意味の、文字どおりの即興である。一見だらしないが淀みのない姿はどうだろう。そこには何も考えなくともずっと見続けさせる何かがある。この何かはまだ他のものと対比できない未知のものだ。
 第二部はウッドベース奏者の千葉広樹とCore of Bellsのドラムの池田と、客席にHoseの服部がウッドブロックで参加するバンド形式の演奏である。今回は宇波が愛聴しているブラックメタルをモチーフとする、ということで、メンバーの服装は黒ずくめ。池田はバンダナで顔を半分隠し、千葉は黒いビニール袋をかぶっている。宇波はセミアコを手にし歪んだ音で激しく掻き鳴らす。ドラムもハイスピード、ウッドベースは野太い音でスピード感を演じ、時にえぐるようなビートも起こす。しかし演奏はグルーヴを描かない。まるでバラバラに録音されたMTRのトラックが再生されているかのようである。リズムはあるがノリがない。音は激しいが興奮をいざなう要素がごっそりと欠けている。まるで壊れた演奏ロボットのようだ。突然、千葉がベースを立て掛け、ステージ下にしゃがみこんだ。トラブルでも起きたのかと思ったが、第一部で使用したダンボールを組み立てている。前触れもなくドラムが止まる。服部のウッドブロックがゆっくりとしたリズムを刻む。木魚のようだ。服部がうなるように叫ぶ。3人はそのまま数分何も演奏しないで立っている。またギターが激しく鳴り出し、ドラムが始まり、ダンボール箱が積み上げられては倒れる・・・・こんな演奏だった。4人とも宇波の指示書きのようなスコアにしたがっている。服部は客席にいたので直前の指示が聞こえた。「そこじゃないだろう、というタイミングで感極まった声を上げてくれ」
演奏は40分近く続いただろうか。最後の5分はメンバー全員が何も動かない。時間となり服部のサインで終了。
 宇波はジョークや毒の効いたパフォーマンスもするが、ここで誤解してはならない。彼の、このような演奏を個性の表出と決めつけたり、反音楽や批評へのナンセンスと解釈するのは間違いだ。また、新しさを求めて無目的にやっているのでもない。では何だろうか。ロックやジャズのような或るスタイルを採用するとそこには既に定まった演奏の引力のようなものが働く。これが音楽ファンを安心させ、楽しませるものなのだが、それは同時に決まりきった落としどころに向かう。だが、宇波バンドにはそのような落としどころが全く見当たらない。お互いが干渉する理由が無いのだ。これは作曲の実験だ。これは宇波が即興と同時に追及してきたもうひとつの側面である。音楽あるいは演奏と呼ばれる事象がどのような条件で成り立つのか。これを宇波は千駄ヶ谷のループラインで杉本、大蔵と共に室内楽シリーズと銘打ち追及している。そこでまず最初に、特定の音楽が持っている言語や落としどころを棚上げにした。彼らはこれに対し非常に厳しかった。時に自身の演奏自体を危機に陥れるようなこともしてきた。(最もキチガイじみたものは演奏経験の無い楽器による作品発表である) 彼らの音楽での音の無い時間は「沈黙」でも「休符」でもなく、空白やブランクとなった。そこにケージの姿は消滅した。そしてストラクチャーがくっきりと立ち上がる空間ができあがったのだ。これは凄いことではないだろうか。確実に駒は進んだ。音色に関する趣向も、当初、所謂音響派的な聴き方を徹底して排除していったが、別の側面からそれはよみがえった。杉本はヴァンデルヴァイザーのボス、アントワン・ボイガー作曲の「sekundenklänge」について、音の選択により曲の長さが伸張することに興味を寄せている。彼はギターでこの曲を演奏するのにハーモニクスを採用した。弦の長さや押さえる場所によって減衰時間が変わる。これが大きな要因となり曲が構成される。ここでのハーモニクスの音色は聴く快楽とは別である。スコアから音色が必然されたのだ。皆が知らぬ間にここ3、4年の間で、彼らは着実に駒を進めた。それによって「過去」ができてしまったのだ。しかしこれは断じて「新しさ」を求めたのではない。真摯な問いかけの結果なのである!そして先日の宇波バンドのように規制の音楽をモチーフとしても、最早その落としどころには向かいようがないところまできてしまった。これはパロディではない。まだ他に比べるものがない未知の経験だ。いままでと違う、根本的な組み合わせの変化である。変な言い方をすると、あの演奏はまるで何かを次々と洗っていくかのようだった。汚れを取るのではなく、ただ洗い上げ、眼の前に並べていくような…。これは、例えばよくある多種混合によっては決して到達されない世界だ。多種混合では、結局は政治力がものを言う。音楽の純粋とは別の次元の結果を聴かされるのである。大げさに言えば宇波バンドによって観客は自身の中にある既成品のような音楽観への見直しを迫られた。未知との遭遇によって、眼の前の汚れが洗われ、ノートの一番最初のページのように真っ白で、広々とした位相が現れた。自然な視界を取り戻す軽いショック療法として宇波流のブラック・ジョークの効果はてきめんである。