把握しがたい何か

 近所の住宅が解体された。住宅がすべて消え去った更地を見ると何とも虚しい感覚にもなるが、こんな狭いところにあの家があったのか、と感じる。よく知っている家の場合尚更である。これは素朴に思うと少し変である。住宅がなくなったのだから、逆に広いと感じるのが普通ではないか。恐らく狭く感じるのは、そこにあった生活空間の機能の密度のようなものが消滅したからだろう。扉を開ける、廊下を歩く、椅子に座る。初めて訪れた空間でもこれらの生活様式の行動は自分の身の回りにまとわりついたかのように在る。これは行動の残像のようなものになって気づいたりする。例えば、新しく買った椅子を、それと意識せず、ふいに座った瞬間に違和感を覚えるような。そのような意味で、家とは住人にとって小さな世界である。しかし、時に、雑木林などが整地されたときにも同様の狭さのような感覚を覚えることがある。これは少し不可解ではないか。そこには生活様式が根付いてはいない。木々が並んでいるだけで住居のような空間の意味は無い。無意味な物体の配置にも翻訳できない何かが提示されているように感じているのだろうか。あるいは、単に空間が単純化されると、受け取る情報が減り、先に書いたような狭さを感じるものかもしれない。
 私たちの空間把握は生活様式や特定の文化によって成り立っている。廊下や階段といった生活空間の体験も、次元は異なるが、三角形や四角形のような図形の性質の把握と同じかもしれない。そう考えると、ミニマル・アート、特にプライマリー・ストラクチャーの動向の作品に単なる抽象性以外のものが見えてくる。真っ赤な直方体や鏡面の立方体を見た瞬間、それは私たちに何かの基準として即座に応対しているのかもしれない。ミニマル・アートはその単純な外観や美術史的な流れとしてしか接していないとしたら、これほど虚しいものはない。空間の機能や意味を宙吊りにした空間。あるいは機能だけを追求してできあがった空間。カール・アンドレが床にレンガやタイルを並べていたのは、マッスにこだわる彫刻への反発や、左翼思想からだけではないだろう。ミニマル彫刻はどう捉えたらより良いだろうか。印象の心理的な分析では核心に迫れない。身体性を持ってくるのが妥当に思える。しかしこれは色んな作品を体験したところで結局ヒューマン・スケールという判定基準の再確認だけに留まるだろう。ではカンディンスキーの著作「点・線・面」のような図形空間の分析はどうだろうか。そうするには図形の性質に対応する意味づけを設けないといけない。正三角形は安定、円は開放というように、それは独特で特殊な体系を形作り、美術の中に自己完結するだろう。しかしこれは作者の望むところではないはずだ。大きさや広さのような、当たり前すぎて気づけないもの。しかし私たちは何かが無くなったとき、そこには今までとは別の空間のスケールを感じる。これは声が音だけに感じられ意味を見失ったときの違和感に近いだろうか。既にそこに在る、ということを自体を掴まえるのは難しい。