作品と展示

 毎日、家の裏にある小川から一滴ずつ水をビンにためていく作家がいるという。親しくしている音楽家が欧州で実際にその方に逢ってきた。アトリエには10本くらい何の変哲もないビンが並ぶ。1年でちょうど一本たまるという。つまり10年分だ!この作品は罠だろうか。もしかしたらその音楽家が来る前日に10本のビンを川に運んでいたかもしれない。あるいは、お百度参りのようなエゴを見せつけようとしたのか。そんなふうに思う者は作品は所詮自己主張のためのジェスチャーだと考えるか、そこに芸術としての戦略的なメッセージがあるべきと考える者たちだろう。作品をじっくり鑑賞(観想)しようという、素朴な気持ちさえあれば、一流のナンセンスでもありうるこの作品から、充分すぎる何かを受け止めることができる。私は、実際に目にして、直感的に何が感じられるものがあるか試してみたいと思う。通常は、きっと少しよどんだ水の入ったビンにしか見えないだろう。しかし作品の説明を聞いたら、目の前のビンは違って見えてくるだろう。一瞬前にはただの汚い水のビンが、途方もない物体に見えてくる。素晴らしい転換がそこで起こる。これこそコンセプチュアル・アートのまっとうな例かもしれない。

昔、上野の公募展で凄い状況を見たことがある。100号くらいの油絵が天井の高い壁面に3段に重ねられ、さっきまで描いていたかのような絵の具の匂いが会場に充満していた。その絵はみな派手な着色でごちゃごちゃと描き込まれ、そのキャンバスの大きさに似合わぬ窮屈なイメージが今にも溢れそうで閉口した。関係者に聞くと、そのような美術団体の公募展会場には展示される位置に特別な意味があるのだそうだ。一番いい壁とされるところを中心に、その団体に属す画家のパワー・バランスが現れているらしい。紅白歌合戦の出番のようなものか。
しかし最近の現代アートの展覧会もそれを笑えないだろう。各キュレーターのお抱え作家の品評会のような、寄り合いじみた印象を受ける。そこにある作品は、会期中成り立っていればいいとでもいうかのようなイベント性が鼻につく。数年たったら通用しないかのような。時代の流れだろうか。資料などから想像すると、30年位前の国際展のほうがよっぽど緊張感に溢れている。
現代アートの空間では、このビンの水は失笑に終わるのが運命だろう。作品は人に見せるものだ。少なからずイベント性は必要だが、そのせいで大事なものが消えてしまったらどうだろう。何をもって満足するかによるのだが。一体何のために作るのか。

もしこのビンを日本で公開したいと思うと相当な困難が予想される。液体の空輸は昨今のヒステリックなまでのセキュリティー体制によって間違いなく通せんぼを喰らうだろう。引火物か?細菌か?検査のためにビンの蓋を開けられたらこの作品は終わる。違う作品になってしまう!美術雑誌で読んだが、トニー・クラッグが海岸で拾ったポリ容器を彫刻作品として、美術運搬の頑丈な木箱に入れて空輸したとき、税関で疑われたのは中の気体の存在だったという。まさか高額の運搬業者を使ってゴミを送る人間はいないと思うのは自然な発想だ。

しかしもし世界的に著名とされるキュレーターや美術機関がこの作家に興味を持ち、国際的に展示をしようと考えたとする。彼らは完璧な運送業者を調達し、税関とも渡り合えるだろう。上手く話を進めるにはその作家が属する国の大臣か何かからパーミッションを取り寄せたり、物性に配慮した非接触検査で有害なものではないと証明することもできよう。このような時、美術機関やキュレーターは正しい力を発揮するだろう。世の中の仕組みが悪いのではない。では問題はどこにあるのか。