息を合わせる

 肺や心臓を傷めるのは辛い。それは生命の危機に直結する。最近そういうことと少し関わりがあったので気づいたことがある。
私は時々何か人がしゃべってるだけの録音が聞きたくなる。
気に入ってるものは独のEdition BlockがディストリビュートしているArthur KopckeのWAS IST DASという作品。カードボードに収まった簡素な冊子と、その冊子を読み上げる年老いた?作家の声のCD。これが独語で一体何を言ってるのか分からない。よく聞くとテープレコーダのノイズも混ざり音質は決して良いとは言えないが、なぜか安堵感が漂う。大きな声になるとそれが部屋に響くのが聞こえる。どんな部屋に居るのか。どういう人生を送ったのだろうか。時折自動車の音がかすかに聞こえる。声を含めた全体の響きの柔らかさ。その声質から語られる内容は想像できない。どこかに住んでいた知らない人の声。内容が分からなければそこまでだ。
他にもずいぶん遠くから買ってきたカセットがある。ルーマニアはスチャヴァの修道院で売っていた正教の神父?らしき人の説教録音。教会音楽だろうと思って買ったのだが、なにやら少し怒ったような声でもしゃもしゃと語る。もちろん言葉は分からない。
声の録音は呼吸を聞くようなところがある。落ち着いて淡々としゃべる声に自分の呼吸が同調していくのが分かる。何とも安らぐ体験だ。詩人の朗読もあるが、これは何か聞いていて引きつった感じになることがある。まくし立てるような声は聞きたくない。日本語はどうだろうか。どうしたって意味に引っ張られるだろう。言葉の意味が分からないことがここでは幸いしている。これは音楽だろうか。そうとも言えるかもしれないが、音楽と言ってしまったら消えてしまうものがある。声なのだ。誰にでもあるもの。どんな様子で語っているか自身で分かる。楽器や歌のような、特殊なものではない。呼吸に意識が向くのはそのせいだろう。存在の証のようでもある。しかしそれは知らない場所で知らない人が語ったものだ。遠い存在が逆に新鮮なコントラストを生む。その声を聞いていると、呼吸の速度が僅かに変わってくる。心拍もゆっくりと穏やかになるようだ。知らない人と呼吸を合わせること。自分の存在の証でもあるのだろうか。だとしたら一種のユニゾンかもしれない。