昔話

 もう17年以上前の話である。大学時代の友人がやっていたメール・アートのようなものに誘われた。心理的な環境リサーチのようなものでNASA JAPANという名前の企画だった。思うところのある友人たちの間で行う閉じた制作。当時はカセットデンスケにマイクであれこれ目的無く録音していたので、こういうことはお安い御用だった。

私は那智の大滝を見てみたかったので、これを理由に一人和歌山まで出かけることにした。
大滝のある山に日の出の頃についてみたいと思い、真夜中2時半に起床して準備。宿屋のおばちゃんの握り飯を持って真っ暗な道を歩いた。飲み水は滝があるのでいらない。熊野古道に入ると訳が分からなくなりそうだったので巡礼にしては味気ないが山に続く道路を歩いた。昼間に一度バスで下見をしたが意外なほど遠かった。だんだんと空が白くなってきた。山は真っ黒な塊である。滝が見えた。滝は一本の白く細い線となって真っ黒な塊と空を繋げていた。興奮を覚えた。大滝が崇められた理由が体験できた。

さてNASA JAPANはどうしたものか。何をここから友人に送るべきか。滝の音は当たり前すぎる。どれを選ぶべきか、そこには何か倫理のようなものを感じた。結局選んだのは田圃で一斉に鳴いていた蛙の大群の録音にした。20分テープの片面をリアルタイムで録音し、その時間と場所を記して4、5人くらいに送った。タイトルは ethics of samplingとしてみた。送った友人の中にその後活動を共にするIがいた。Iは私が倫理なんて言葉を大風呂敷に使ったことをしきりに感心してくれた。田圃で録音が終わってしばらくしたら、何十個ものハマグリをこすり合わせるような蛙の声がいきなりぴたっと止んだ。宿のおばちゃんに聞くと、蛇が出たからだろうということだった。

 その後、NASA JAPANは別の場所でもう一度だけ使用した。
那智の滝からしばらくして、逗子に住んでいるMが池子の米軍基地関連の反対運動をコンセプチュアルに捉えたゲリラ展を持ちかけてきた。Mの父はそこで自然保護の観点から米軍住宅地建設に反対する市民運動をやっていた。感じのいい人で、その活動は利益追求ではなく、あくまでも環境保護からの土地の返還にこだわっていた。そこに数人の芸術家を自称する大学あがりのひねくれ者たちが集まった。当初は6、7人はいたと思う。Mは純粋な男で、浪人時代から知っているが、デッサンのいろはも知らないうちから物凄い集中力で美術予備校生の次元を超えるような絵を描いていた。年は離れていたが私は一目置いていた。そいつが企画してきた内容も面白く、市民運動や地域の利を使うようなどうしょうもない展覧会には一向になりそうな気配はないものだった。政治運動と芸術の接点ということに昔から関心はないが、これは面白そうでやってみる価値があると思えた。
それからしばらくは市民運動家の集会に出席したり、逗子市市庁舎で当時の市長T氏に企画の話をしに行った。T氏は頭の良い人で私たちの考えはあっさりと理解してもらえた。立場上表立って協力はできないが、いろんな情報を提供してもらえるという話にまでなった。
しかし当のMは実は持病で体調が悪く、それが精神的に連動してしまう症状で、時が経つにつれ企画者でありながら展示はできないなどと言い出したり、ニーチェがどうした超人がどうのこうのと、キスマークがべたべたつけられ、池子の天使たちへなどと書かれた半ば錯乱した手紙が届けられ、企画は転覆した。2つあった市民運動同士が土地の境界か何かを理由に仲違いになったりしたのも痛かった。

だが、このままMの錯乱で終わらせるのは私自身あまりにも落とし前がつかない。Mの症状は父から電話で聞いており、仕方がないものの、そのあまりにも純粋な姿に答えたい気持ちもあった。
私の展示のアイデアはそれは市民運動家を手伝わせることを念頭に置いたもので実際に実現が難しいものだった。池子の工事予定地のバリケードをリシツキーやマレーヴィチの作品の形に切った大きな鏡の板を一列に貼り付けるというものと、境界地に英文で書かれた警告文のアルファベットのいくつかに蓄光塗料を塗り、違う意味の言葉が夕暮れあるいは日の出前にしばらく現れるというもの。もうひとつは市民運動家やそこに関わる政治家などに池子に繋がる小川の音を選挙の日に録音し送る、というものだった。運動家の資金や協力が得られなくなった状況で実現できるのは最後のひとつだけだった。ゲリラ展はなくなったのでNASA JAPANでやってみることにした。

逗子高校の裏にある神武寺ハイキングコースという名ばかりの道はうっそうとしており、そこのちょろちょろした流れの真ん中の岩の上にデンスケとマイクをセットし4、5時間、10分テープの片面に何十本も録音した。那智の要領と同じでその時間を書き込む。パンとお茶くらいは持ち込んでいたと思うが、時々小便をするくらいでじっと動かずに流れの上にいた。動いたら録音が台無しになる。4、5時間はさすがにつらかった。体が冷え、全身の間接部分が痛くなる。不思議なことに体が冷えてきつくなると、生暖かい風が吹いてくるように温まってくる。しばらくするとまた冷え切って震えが起きるが、また暖かい風が上流から流れてくる。これが繰り返された。恐らく体が恒常性を維持しようとしていたのだろう。人間は環境を客観視できないと痛感した。その暖かさは確かに感じたが実際の風なのか判断はできなかった。

送ったテープには住所を書いておいたが誰からも返事も来なかった。いや、1通だけ来たが、内容はこれからもがんばりますみたいなことだけ書いてあっただけで何のことはなかった。

あの当時は私も気が滅入っており、思い出すのが嫌だった。何といっても学生臭さが抜けず広がりの感じられない思い出だ。しかし今、あらためて考えてみると、那智の件もこの件も自分の経験であり、自らの行動のリファレンスになるような気がする。