言葉を聴く楽しみ

まずはここに上げた音源を聴いてほしい。
https://soundcloud.com/toshi/was-ist-das
これはArthur Køpckeという作家が読んだ自作の詩「Was Ist Das」。1950年代の後半に録音されたものをCDで復刻したものの抜粋である。
オランダ語のようだが、私たちには言葉が分からないため、当然内容も掴めない。読経のような、淡々と何かを読んでいく語り口。聴いていて妙に落ち着く。
恐らく当時普及していたオープンレコーダーの録音だろう、かなりローファイである。それが味わいを増している。
私はこのCDを時折引っ張り出しては聴いている。聴いているうちに、この声の主の呼吸に、自分の呼吸を合わせるようにして気持ちが落ち着いてくる。60分、最後まで聴くと静かな爽快感を覚える。
意味の分からない朗読はいい。他にもこういう語りの録音はないものか。探してみるがなかなか無いのだ。

日本ではあまり見かけないが、海外の中古レコード店にはSpoken Wordsというコーナーがあり、そこには朗読だけではなくギリシャ悲劇からコメディまで幅広い表現が詰め込まれている。いくつか抜き出して試聴してみると、求めるものと全く違うのである。言葉は分からないことは同じだが、声に表現しようとする抑揚があり、それが気になってしまうのだ。声に意味するところに積極性が宿り、想像力が刺激されてしまう。

意味を抜き去った言葉の響きといっても、ハナモゲラ語でもコバイア語では困る。疑似言語は数分聞けばすぐバレてしまう。
個人が勝手に作ったものと、特定の文化に属したものとの間には、圧倒的なリアリティに差があるのだ。
言語は一夜にしてできたものではない。ひとつの文化である。その発音の形を味わいたいのだ。

これは百戦錬磨の実験的な音楽の楽しみ方とは異なる。専門店にはオーロラの電磁波、動物の鳴き声、スパイ放送、環境音などなど非音楽のレコードが入手可能だ。気の振れた人の呻き声のような音声詩のファンもいる。
ここに挙げている言葉を聴くことでは、音響だけに興味があるのではない。
言葉が確立する長い歴史があったであろうことを想像したうえで、文化の物質的な姿をしげしげと味わいたいのである。音楽とは別の聴き方である。
以前からこのような考えを何となく持っていたが、最近小さい石斧を手に入れたことで改めてこの思いが明確になった。
石斧はアメリカから出土した紀元1万年頃のものだが、美しい赤茶色をした非常に硬い石で一見するとなんの変哲もない石ころだが、片辺がエッジを効かせた歯のように加工されている。手に持ってみると指にピッタリくる。この手触りによってヒトが使用していた道具だと実感できる。
言葉の音もこの実感できる手触りと同じである。イタリア語にはイタリア語の歴史があるように、言葉は何千年もかかった文化の結晶だ。そこには特定の地域と時代の形がある。他の土地で育った植物の形が徐々に変化していくのと同じである。これを頭に思い描いて朗読を楽しむのである。
ただ音だけ聴こうとしていたら60分も聴き通せない。

別の方向から考えてみよう。
もし実際に目の前にArthur Køpckeが居て、この詩のようなものを朗読したらどうだろうか。
目の前に人がいたらその存在が大いに気になってしまう。何を喋っているのか無視して目の前にいる人間を見る、ということは非常に奇妙な経験である。言葉の形以上の別の問題が浮上してきてしまい、声など頭に入ってこないだろう。不鮮明な記録物なので言葉の形だけが伝わってくる。
声と文字はその起源を同じくするものではないが、文字との関係で考えみよう。グルジア語やカンボジア語のようなものを見ると、私たちの慣れ親しんだ文字と余りに似ていないため、形の特徴だけが見えてくる。それらはアルファベットやハングルよりもずっと図形的であるが、決して単なる図形には見えてこない。
文字の形が発音やその国々の伝統芸術と何か似た匂いを感じるように、抽象的なレベルで言葉の形というものがある、と想定してからでないと、言葉を聴くことは楽しめない。
極端にデフォルメされ、文字に見えないタイポグラフィも、一旦、文字と認識されると二度と図形に還元できなくなるように、私たちは意味の分かる言葉を単なる記号と見なすのことは非常に難しい。
意味の分からない朗読を聴くことは、言葉を聴いていると認識した上に成り立つ楽しみ方なのである。
子音の弾け方、母音の音律など、言葉の形を愛でるように聴くこと。
母国語では到達不可能な無重力体験である。映画「惑星ソラリス」で一時だけ無重力になる美しいシーンがあるが、あれと同じでそのチャンスは限られている。

ここに書いた「言葉を聴く」という行為は、一般に認知されにく、ハードルの高い楽しみ方だろう。それこそ実験的ではないかと言われるだろう。
だがこれは決して音楽を聴くことと同義でないと私は主張したい。たとえそれが抑揚の無い特殊な演奏を聴いたのと同じ効果をもたらすとしても、だ。意味の分からない発音だけのの朗読でも言葉は言葉なのだ。
何でもかんでも音楽と言わないでほしい。そう言いたくなるほど特殊で実験的な音の作品は山ほどあるが、それぞれ由来の異なる記録たちの、それぞれに宿る独自性を顧みることなしに、特殊な音楽の聴取と見なすことほど貧しいことはないのではないか。
聴こえる音は何でも音楽だという考えは極めて無粋である。
それは作品が成り立つ脈絡を消し去ってたくさんの可能性を画一化し、蛙も鶴も鯛も貉もみな同じ掃き溜めにぶち込んでしまうのだ。