塾ボックス「光」を観て


 昨日、東谷隆司企画の塾ボックス第1回を観に行った。イベントの構成は哲学談義が交わされた後、ライヴが行われるものである。
哲学談義は、彼の旧友でもある中世哲学の研究科、鈴木敦詞を招き、西洋中世哲学の重要なテーマである「光」について語られた。
ギリシャ古代から始まる中世キリスト教哲学が主題となるのだが、まずすっ飛んでデカルトニュートンの座標思考を解説し、その後フレーゲ、カッシーラまで行きつつ、現代物理に極々軽く触れた後、話題の迂回点をライプニッツに置いて、再び中世神学の「光」認識の基本中の基本である偽デュオニシウスの「天上位階論」あたりへと戻る内容で、興味深い展開だった。1時間ちょっとあっただろうか。どの部分もさらっと触れていったに過ぎない。このとんでもないスケールをまともに語ったら数年はかかるだろう!
私が理解した範囲で、核になると思われることをいくつか紹介すると、
中世の「光」という概念は物理での光のそれとは全く異なり、私たちが日常的に使うポテンシャルという言葉の意味に近い「力」に似ており、それは「一者」である神から来るものであり、その光に照射されることで照射されたものそれ自身が光と成り、周りを照射し、「善」となっていく、という多義的な解釈で同時に多分に神秘主義的だ。ここには新プラトン主義が大きく関わっている。
カッシーラという哲学者は比較的最近の人物だが、ギリシャ古代から続く哲学の本質を深く知っており、物理科学をその視点から見詰めた稀有の哲学者だそうだ。
中世の哲学は、メタファーの巣のようなスコラ哲学に代表されるように、批判の対象となるところは周知事実とされているかもしれないが、
東谷が鈴木に「現代物理の唯物論的な思考に対する批判はどこにあるのか」と問うと、鈴木は「電池」を例に挙げ、簡単な喩えでそれについて説明した。曰く、エネルギーの汎用のために電池は作られたが、
その発想自体がよろしくない。何にでも利用可能な、言ってみれば貨幣のような事象が眼の前にあると、それを使って行われる物事の本質が失われるだろう、という。
もちろん電池自体が悪者ではないが、そういうものが既にあると人間関係とそこで演じられる楽しみも希薄になり、目的のための目的のような浪費のサイクルが発動してしまう。原発事故などがまさにその最悪の例である、と。
私はこの談義を聞いて、極論すれば一者=神という概念が大きく関わってこないとこの解釈はうまくいかない気がした。
現代の思考作業のベースに神は無い。そこではすべてを分析的に思考し、暫定点を更新していく訳だが、思考の愉しみは増えるが一方では
価値のようなものの定義が不定となるため、素朴に考えてどこかで満たされない感覚が起こるのではないか。また或る面で創造的な思考も難しくなるかもしれない。
解釈には現実を飛躍させる効果があり、分析には飛躍を押さえる効用があるとも言える…。
現在、哲学を根本から排斥するラディカルな動きもあるようだが、何だかんだ言っても思考してしまう限り、形而上学的な視点を消しさることはできないようと思う。
難解な中世のテキストをラテン語で読んできた鈴木は「こういう文章は論理的に理解しようと思うよりも、ゆっくり味わうように読むべきで、そうして得られるものがある」というような旨のことを言っていたことが印象に残った。
まったく関係ないことで印象に残ったのは東谷の声が実にマイク映えすること。発音が明快で味わいのある声で、美術書の朗読CDなど作ったらどうだろうか。
その後に志水児王のパフォーマンスは圧倒的で、次回の私をノイローゼに追い込ませるようなパワーがあった。
彼が一貫してやってきたことのひとつの、知覚の速度と認識のレンジの関係を回転するレーザー光線と音声で表現したものだ。
情報を遮断するタイミングを変化させることで見えてくる像。私たちの知覚が絶対的なものではない、限定された範囲を持って出来事と干渉して世界が像として成り立っているということを証明する内容だった。
その後はお馴染み、生西、掛川のVJによる東谷のハウスDJ。いつになく集中している東谷は原発事故以降、疲労していたそうだが解放されていくプロセスを消化しているようだった。
これぞ光の作用だ、ときっと旧友である鈴木は言うだろう。4月4日は「音」がテーマだそうだが、どんな談義が繰り広げられるのだろうか。
このイベントは継続されるようだが、非常に興味深い。若い観客も多く70人以上はいたように思う。