WHO黒ちゃんの本

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黒沼真由美。大学時代、黒ちゃんとは同じ研究室だった。何というか、オンリー・ワンな人で、こういう方と会えることがあの大学の醍醐味だと思わずにはいられない。
他の脈絡を寄せ付けないような行動のユニークさ。サナダムシだ、競馬だ、ペヤングソース焼きそばだ、とか、通信翻訳に打ちミス混じりの絵画技法書を打ち込んでトンデモナイ翻訳を出したりして、大いに楽しませてくれた。そんなイメージのせいか、大変失礼な話だが、独特過ぎるキャラが邪魔して作品に関しては「黒ちゃんだから」で過ごしていたのが正直なところだった。
しかし数年前、横浜で美しい作品を見て驚いた。レース編みの「肛門」という文字の暖簾。他にチンクイ虫のドローイングとか、相変わらずだなぁ、でもずっと制作を続けているんだ、良かったなぁ、なんて呑気に思ったりしたが、今思えばこれも自らの鑑賞眼を猛省すべき出来事だった。思い知らされたのだ、この「WHO」の黒ちゃん特集を読んで。彼女こそ探訪者。等身大の本物の作家だ。黒ちゃんは小学校時代にトイレで大便することへの恐怖などの思いをずっと心の内に秘めてきた。しかし最近、竹島尖閣諸島の問題に危機感を覚え、日本の近代史をひも解き、彼女自身が見とった日本の歴史的断絶を知ることによってその小学校時代以来続いていた呪縛から解放されたという。また、目黒寄生虫館のサナダムシの標本を見て、その神々しい美しさに神社の紙垂がダブり、レース編みを思いついたという。これらのエピソードも、単に独特な感性の人間、と片づけてしまいそうだが、それはちょっと待ってほしい。普通だったら、とっくに忘れてしまうようなことにずっとひっかかった探究を続けた結果、個人の枠を超える大きな脈絡同士がぶつかり合い、個の問題が解放され、藝術作品が出来上がったのだ。ユニークで片づける訳には行かない。
この「WHO」では、端正に馬を描いた水彩画から連想するのか、所謂アウトサイダー・アートヘンリー・ダーガーを彼女の作品に対比して挙げているが、それはよくない。独特さが、オンリー・ワンが強調されてしまう恐れがある。私はウォルフガング・ライプこそ黒ちゃんの作品の本質に近いと思う。昔、ウォルフガング・ライプが自身のレクチャーで、アーティストになる経緯を話したことがあった。彼は医学の道を志していたが、大学でDNA検出のために毎日何匹ものハツカネズミをミキサーにかけて液体にする作業が嫌になり辞めてしまったそうだ。そしてインドに旅立ち帰国し住まいを構えると、目の前にタンポポが咲き乱れる草原があったという。実に分かりやすい。まさにライプを藝術家たらしめる出来事だ。比べると黒ちゃんは、馬が好きで競馬場に通いつめ、東スポに心酔して就職を希望し、心弾ませた面接の開口一番は「お母さんはこのことを知ってますか?」だったというからサクセス・ストーリーから程遠い。ライプでも矢沢でもエジソンでもいいが、現実の人生において自他共に分かりやすい出来事はそうそう連続するものではない。日々の生活は、この目の前に在る世界の中にあるのだから、探訪者にはそれしかない凸凹道を不器用に歩いていくしか手はない。どこでどんなタイミングで何に出会うか分からない。誰の目にも明らかなスーパースターのサクセス・ロードを歩きたい者は見てくれの悪い余計な凸凹をならし、雑草を引っこ抜かないといけない。それがプロってもんさ、という気概もあるだろうが、そこにちょっとでも嘘があったら背負う看板はさぞかし重たいことだろう。
黒ちゃんは正反対だ。彼女の生き物を見つめる眼は人間中心ではない。そのことに気づくと、突拍子のないようなモチーフ同士が繋がりを見せてくる。彼女が描く馬は現役を退き、ひっそりと世を去った歴代の戦士だという。この本には寄生虫学者の藤田紘一郎博士と黒ちゃんの対談が載っている。サナダムシは決して害虫ではなく健康を保つために共存するべき生き物だそうだ。また、意外な話だったが、彼女は10年くらい前からか修験道に励んでいるという。このあたりについてこの本に詳しく書かれていないのが残念だ。ここに何か途方もなく遠く古い風景を見るような予感がする。
そんな想像をしながら学生時代の黒ちゃんを思い出して読むと、暗闇に一匹のサナダムシが踊りだす幻想が見える。サナダムシは生態系だけでなく、人類の歴史と文化のインサイダーなのだ。長い体を這わせながらあちらこちらへ這い回り、他の生き物とヒトの体を突き抜け、やがて世界の姿を示す図を描くだろう。