バロック音楽

 破格の独ハルモニア・ムンディ50周年箱を買ってからバロック音楽にハマってしまった。私はクラシックの門外漢で、好きなジャンルは古楽と現代音楽というキセルのような接し方だった。レコード店ではその2つのジャンルが隣り合っている場合が多いので同じような人が他にもいるかもしれない。バロック音楽の愉しみを知ってから、時系列でヘンデル、ボッケリーニあたりまでは聴けるようになった。しかしハイドン以降は無条件では楽しめない。以前、古楽を愛聴していた時期があったが、不完全な単旋律しかないはずなのにそれらしい伴奏や演出が鼻につきだし、集めたブツも島流しに処した。かといってバロックのような退屈な音楽は勘弁だと思ったが、本当のところはそうではなかったのだ。気づくには十数年かかった。

バロック音楽を聴くことは図鑑を見ることに近い。何の期待も必要ない。いつものどおりの金太郎飴。しかしその誠実さがいいではないか。クラシック界には演奏者や指揮者の個性が好まれているようだが、そこにはどうも本質的な矛盾があるような気がする。私がバロック音楽で楽しんでいるものは、どれも同じような音楽であるゆえに僅かに滲み出てしまう味わいである。それは演奏家のちょっとした手わざや演奏された空間の響きなどに表れる。個性云々とどこが違うのか、と突っ込まれるかもしれない。しかし否である。先に書いた個性偏重はその音楽より指揮者や演奏者自身が突出しようとする印象を言っているのだ。バロックがそうなりづらいのはその退屈な音楽形式にある。植物図鑑はあくまでも植物がメインでなければならない。編纂者の画集になってはいけないのだ。その慎ましさが快楽を生む。チェンバロ変奏曲などダイジェストで聴いてはいけない。一番から何十番まで全部聴かないとダメだ。演奏者の勝手な解釈同様、聴き手のわがままは排除すべきである。

期待しないで聴ける音楽。最初からすでに飽きている音楽。その節度ある慎ましい佇まい。だからこそ、時々はっとする音が聴こえるのだ。しかしそれもつかの間。聴き進めていくとほどなく慣れてしまう。終わったら次の盤へと進もう。半端に終わってはいけない。そこにはまた別の小さな驚きがある。できれば録音は少し古いものがいい。あざとさが少ない。特徴がない演奏を機械的と呼ぶべきではない。コンピュータ演奏では困るのだ。チェンバロの個体差はプリペアドピアノを超えている。チェンバロは進化してピアノになったのではない。別の腹の息子だ。彼とは疎遠でいたい。バッハはバロックを逸脱して評価されているので少し無視したほうがいいだろう。商店街のBGMに限りなく近く、同時に限りなく遠い音楽。それがバロック音楽の本質だ。コレッリの有名なコンチェルト・グロッソ6番は数曲まったく同じ終わり方をする。何と退屈で斬新な音楽だろうか。