藤牧義夫 失踪の謎

小野忠重著『現代版画の技法』ダヴィッド社 昭和33年初版発行より抜粋

牧義夫(1909-25?)と知りあったのは新版画集団創立の年だった。銀座の図案社にかよう二十四歳の彼とほとんど同年輩のなかまが集まって、深夜まで画集(自費出版)のための作品のための作品を刷ったり、ともすれば「新しい版画」を話し合う。(略) 
しかし、しだいに彼の顔から明るさが消えていくのに誰もが気づいた。ふいに訪ねた私は、あおむけに寝て、ボンヤリ天井をながめている彼をみることがあった。小学校の校長だった父がはやく世を去って、生まれた群馬県舘林には義母だけがいた。女きょうだいの末男だった彼は「家」の重荷をいつも背負っていた。(略)
右翼宗教団体に加わり、パンフレットの売込みには、かえってとぼしい自費を使いはたすほど気の弱い彼だった。(略) 
なかまで話し合った浮世絵版画家の話が糸口となり、北斎の貧乏ぐらしと「隅田川両岸一覧」が、東京の下町にほとんどすごした彼の興味をひき、版画にするための素描を目指したのだ。それまでの作品を全部ひとの手に渡してその画巻だけがいつも身近に置かれた。もう展覧会でも画壇でもない。「家」におしひしがれた貧しい彼の頭には画巻だけがあった。(略) 
わずかに寝るだけに帰る部屋、入るとバッタリと倒れる。飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりであった。それ以来視界から去った彼の骨はおそらく隅田のどす黒い水底に横たわっていると、いまも友人たちは信じている。

昭和53年銀座かんらん舎での藤牧義夫展のパンフレットに小野はこんなことを追加している。

しかし私には彼の別れがしみついている。35年昭和十年の九月にはいるそうそうだった。藤牧があらわれて、浅草の部屋を引き払った、といい、大きな風呂敷包みを二つ、ドサリおいて、これをあづかってくれという。それまで身近にあった版画の一やまと、あまり多くもない彼の読み物、どれも図版のうちにも彼の鉛筆画がのこる、村山知義の表現派やダダの本、「アトリエ」誌のプロレタリア美術特集号などをぶちまけた。そしてききとりにくい小声で、私や新版画集団の友人に対してすまなかったとか、ありがたかったとか、くりかえす。気がつくと、頬に光るものが見えたが、それが胸にこたえるほどの、こちらも年ではなかった。彼が去って、しばらくして、これから行くといっていた浅草の姉の家から「来ない」と知らせがあって、ハッと気がついたのである。・・・』 
この文章以前の著作には「それまでの作品を全部ひとの手に渡して」と何度も書いてきた小野が、急にこんなことを書くのは何故だろうか。

小野の文章に基づいて9月2日の藤牧の足取りをみると(地図参照)、下宿を引き払って大きな風呂敷二つだけを持ってDからBに来た。その後、姉の家Cに行ったことになる。しかし遺族の話その日は藤牧がA地点の太田家におり、Cの姉の家に行く、と言っていたという。そのとき大きな風呂敷包みを遺族は見ていない。2日は雨模様で、太田氏は「雨だから明日にすれば」と話したという。Dの下宿を引き払ってAに行き、BによってCに行くのは不自然である。二つの大きな風呂敷には濡れては困る版画があった。傘をささずに持っていくだろうか。

新聞記事には2日は「豪雨の予想だったが、浸水にまで至らず」とある。小野の話は真実だろうか。小野の著作『現代版画の技法』(昭和31年2月発行)の「青春の残像」にこうある。
私の家から彼の姉の家に行く途中で、彼は消息を絶った。来る時間に来ないので電話があって大騒ぎになり、捜索願いを出したりしたが、それきり彼の姿はこの世から消えた
しかし新版画集団の9月の活動記録に藤牧の捜索の記述はない。彼らは9月に2回会議を行っているが、その議題は近日に迫った版画展覧会に関するものである。
そして10月には第4回日本版画協会展に藤牧の版画が出品されている。姉たちは藤牧が生きているのではないかと驚いたという。この作品の出品に関しては「斟酌すべき事情により集団にて出す」と記録がある。藤牧失踪の件を新版画集団の団員が知ったのは11月以降だった。その間、大騒ぎなどしていない。



(小柄な彼の頬骨は高くなるばかりであった、とあるが、写真では全くそうは見えない。)


出典:大谷芳久著「藤牧義夫 眞偽」学藝書院刊 「藤牧義夫」生誕一〇〇年カタログ